フィンランドと自然災害と新年と
フィンランド人に向かって、あけおめとは言えないまま日が過ぎた。ヨーロッパでもお正月飾りを・・・まちがえた、クリスマスの飾りをしまう時期だそうだから、そろそろ「寒中お見舞い」になるだろうか。でもそんな習慣はなく、さくっと1月の日常は始まる。
2023年の12月31日には、日本語の話せるフィンランド人に数年ぶりに会った。その帰り道、ばったりと「あきこさん?」と日本人から声をかけられた。夜は、在欧日本人のkネットカラオケ大会だった。ここにいて、こんなに日本語だらけの日をすごしたことはなかった。
で、翌朝のニュース。
2011年311は、フィンランドへ向かうきっかけだった。私はまだ今のようにネットを使う習慣がなく、Twitterでつぶやくことも知らなかった。いったい何をしたらいいのか何かできるのか、暗くて重い、やるせない気持ちでいっぱいだった。当時住んでいたパリには日本人もたくさんいるし、日本人が経営する日本的な店もあるから、それまで全く面識のなかった人に会い、それでいて、一緒に黙り込むような時間を過ごした。食品関連の仕事の方には、本当に重い多大な影響が来るのを感じた。
私はいつものように歌のレッスンをしにいけばよかった。顔は出したが、とても歌う気分にはなれなかった。多くの生徒が、家族は無事かとか、Sorryに値するお見舞いの言葉をかけてくれた。中には、こわこわいと目の前で連発する人もいたが。
2011年の1月から私はフィンランドの男声合唱団もしくはバンド、Semmarit のCDを毎日聞いていた。家で時間があれば、即かける。言葉がまったくわからなかったからだ。音楽がおもしろかったからだ。歌のフィンランド語が、あまりに心地よく響いたからだ。
が、3月11日から、ふっつり聞くのをやめ、その後も長い間聴かなかったと思う。
このずっと以前に知人の訃報を受け取った経験がある。訃報ではない。もうお葬式も終わった、と言う知らせだった。その人からのメールを待ちわびて、喜んでメールを開いただけに、心につきささった。もし知っていたら、それが葬式であっても、私はすぐさま飛行機で日本へ向かったかもしれない、と毎日泣いていた。
「できるときには、できることをしよう」
Semmaritのサイトをぼんやり眺めるくらいの元気が出た頃、4月にヘルシンキとTurkuでツアーがあるというのを見た。行こう、と思った。全く知らない人たちだけど、ひとことメールを送っておいた。そして4月半ば、ライブ後に、声をかけてくれたメンバー達がいた。そのときは全くフィンランド語はできなかったから、英語でのやりとりだ。Sorryがやっぱりつきささった。311のことは話したくなかったくらいだったけれど。
救助が進まないこと、避難所の様子を見ていると、311の時感じた私のいらだちは、今もさほどかわらない。それでもNHKアナウンサーの強い言葉が津波からの非難を促したことは信じている。
今朝会ったフィンランド人達は、特に話題には出さなかった。けれど、ミサでの祈りは日本へもむけられていた。
Semmaritは2019年が創立30周年ツアーの始めだった。翌年にはコロナの時期に入り、最後には「33周年ツアー」になっていた。この地元では昨年2023年の3月にライブハウスで、また夏のおわりに屋外ライブがあったが、それからまた、ご無沙汰である。さみしいったらありゃしない。
そろそろ、顔を出そうか・・・と思う。できれば、なにごともなかったように。