連作短編小説「婿さんにいってもいいか」3月 最終話

【三月 婿さんにいってもええか】

 主のいなくなったシノさんの部屋の前で栄子は立ちつくしていた。
 いつもと変わらないホームの朝。大量に炊かれたみそ汁の匂いと、ロビーから大音響で流れてくる連続テレビ小説のテーマ曲。出勤してきた職員が夜勤の当直職員と交わす日常の言葉。なにひとつ昨日と変わっていない朝。
 栄子は小さく首を横にふった。
 どうして、いつもと変わらず朝がくるのだろう。
 どうして、皆、いつもと同じように過ごせてゆけるのだろう。
 皆、気づいていないのだろうか。
 もう、シノさんがいないことに!
 知らせを受けた栄子が病院にかけつけたとき、ヨシノはすでに息をひきとっていた。
 「当直の職員が見回ったときはスヤスヤ眠っていたそうだ」所長が教えてくれた。「そのまま、眠ったまま亡くなったようだ」
 まるで、そのことが救いかのような所長の言葉に反感を覚えながらも、栄子は黙って頷くだけだった。
 目を半分あけているようにも見えるシノさんの顔は、とても安らかとは言いたくなかったが、かすかに開いた口が微笑んでいるようにも見えた。

 照空の父が読経してくれ、簡単な葬儀が営まれたのが昨日のことだった。 
 栄子は休日をとり友人として参列した。照空も役場を休み、寺の業務をてきぱきとこなしてくれた。
 黙って何もいわずに。
 なにか声をかけてもらいたかったわけではない。空々しい悔やみや励ましの言葉など、今は欲しくなかった。ただ、黙って何もいわずにソッとしておいて欲しかった。だから、照空の態度はありがたくもあった。
 近親者の身よりのない入居者にありがちな「持ち物の処分はそちらでお願いします」と身元保証人である遠縁から連絡があるかと思いきや、シノさんの姪にあたるという中年の婦人が江津からやってきた。その日のうちに、シノさんの荷物は整理された。幾つかの段ボール箱におさめられ、その姪にあたる婦人が持ち帰ることになった。シノさんの部屋は数時間で無人の四角い箱となり、明日にも順番待ちの新しい入居者の居室となる。
 その夜から勤務に戻った栄子だったが、朝になってシノさんの部屋だった扉の前で立ちすくんでいた。
 「あ、いたいた、」同僚の真知子の声に我に返る。「栄子ちゃん、お客さんよ」

 玄関で栄子を待っていたのは、シノさんの姪だった。
 「ごめんなさいね、お忙しい勤務中なのに」
 白髪まじりの頭を丁寧にさげられ、栄子もあわてて挨拶を返す。
 「あ、いえ。お待たせしました」
 「あの、叔母の荷物の中にこれがありまして」
 白い封筒が差し出された。表に『栄子様』と書かれている。シノさんの字だ。ずっと、ずーっと見慣れているはずの字が、やけに懐かしく、そして、とても貴重に重く感じられる。栄子の鼻の奥がツンとなった。
 「叔母に良くしてくださったんですね」そう言われても頷くことしかできず。「近くに住んでいながら、一度も見舞いにも来ずに、冷淡な姪だとお思いでしょう?」栄子の返事を待つことなく、彼女は続けた。「叔母とは十五年前に会ったきりです」
 「十五年前?」
 「ここに入居が決まった日に。叔父のお墓参りに一緒に行きました。私は江津で教員をしているのですが、今、長年の夢であった郷土史をまとめています。叔母の人生は昭和の農村を生き抜いた女の一生だと思うんです。十五年前、いつの日か叔母のことを書かせてくれと頼んだら、私が死んだあとに書いてくれと答えられました。それも、脚色は一切せずにノンフィクションを希望すると」
 「…ノンフィクション」
 一年前、敬太が自己紹介するときに使った言葉だ。『ノンフィクションな生き方をしたい』と。
 「そして、一切、面会にこないように約束させられました。私には、いつまでも外の世界で働いている叔母の姿を残しておきたかったのでしょう。叔母のことを書くときに、いつまでも活き活きしている女を描いて欲しかったのでしょう」
 「シノさんはここでも活き活きされていました」反論するわけでもなく、言葉が口をついてでた。
 ここに入居してくる前のシノさんしかしらない彼女と、ここに入居してからのシノさんしか知らない栄子。
 シノさんの姪は微笑んで頷いた。「あなたには、ここでの叔母を描くことができるのですね」少し羨ましそうに。

 シノさんの荷物とお骨と姪を乗せた車を見送って、栄子は受け取った封筒に目を落とした。シノさんの手紙。最初で最後になってしまった手紙。早く読みたいような、それでいて、いつまでも読みたくないようにも感じる。読んでしまったら最後、もう、二度とシノさんから呼びかけられることがなくなるようで。読まないでいたら、そこに、その文字の中に、シノさんが永遠に生きていそうで。
 それでも決意を固めて封を切る。
 中から便箋が一枚でてきた。
 短い文章が幾つか並んでいる。
 『ノンフィクションの人生を歩むのは楽じゃない』
 また、ノンフィクションの人生、だ。
 『でも、悪くない。地に足をつけてゆけばいい』
 ホームの門に軽トラが止まる。
 家の軽トラのような気がする。
 ……どこの軽トラも似たようなものだけど。
 運転しているのが弟の信博にみえる。
 ……NOSAIの帽子をかぶっていれば誰も一緒にみえるけれど。
 助手席から駆け降りてきたのが敬太にみえる。
 ……東京にいるはずなのに。
 ……敬太?
 ……敬太!
 敬太が、真っ白い息を吐きながら、駆け寄ってきた。
 「……どしたの?」
 そのまま、ぎゅっと抱きしめられる。
 ダウンのコートごと押しつぶされそうな力で。
 「独りじゃないから」敬太が鼻水をすすりながら耳元で言った。「独りにさせないから」
 「……敬太」
 栄子の肩の力がぬける。眉の間にカタマッテいた力もとれる。
 ……ああ、これだったんだ。シノさんが急にいなくなって、どんな言葉も欲しくなかった。でも、これが欲しかったんだ。これを求めていたんだ。
栄子の目から涙が流れ出た。シノさんに逢えなくなってはじめて流れた涙だった。
 『ノンフィクションに生きるには、』シノさんの字が栄子の手の中で見上げていた。『ただ、自分に正直になればいい』

 その日の午後、栄子は役場に照空を訪ね、これまでのような付き合いをやめたいと伝えた。『これまでのような付き合い』と言うのが、『結婚を前提とした付き合い』なのか、『ただ、漠然とした付き合い』なのか、自分たちでも把握しきれないが、『周囲に将来を期待されるような付き合い』だったのは確かだ。
 「わかった」
 想像通り、照空は理由を尋ねることもなく頷いた。これが、この人のいいところでもあり、悪いところでもあるのだろう。不器用で気持ちを伝えるのが下手な男。そして、それをわかっていて理解してあげられない女。
 「ごめんなさい」
 「謝ることじゃない」珍しく照空は一言付け足した。「感情を言葉にするのは難しいけど、言葉にできる感情がないよりもいい」
 無口な照空が寺を継いで説法できるかと心配した日もあったが、無口だからこそ重みのある言葉が生まれるのかもしれない。シノさんが照空のことをどう評価しようと、この一言をもらっただけで、栄子は照空と付き合っていたことを後悔することはないだろうと思った。

 「これ、返すね」その夜、森脇家を訪問してきた敬太に、栄子はあずかっていたパラグアイの本を出した。パラグアイに行くことにしたのかどうか訊く代わりに。
 「うん、」敬太は受け取り、友の形見の本をやさしくなでた。そして、栄子の本棚にたてる。「この本はここにおいておこう」パラグアイに行くことをやめたと答える代わりに。
 「東京で資金調達してきたんだ」敬太は静かに続けた。「Iターンのウェブマガジンに奮闘記を連載する契約をして、実家の近所の八百屋にも有機無農薬の野菜をおいてもらえるよう直談判してきた。後、YouTubeも始める」
 「ユ、YouTube⁉」
 「田舎暮らしの奮闘ぶりを映像にして営業。んで、視聴者に野菜を買ってもらう」
 「…ゆ、夢みたいな話だね」
 「夢、見たいよな」敬太は照れくさそうに続けた。「最初は収益があがらなくても、ここで農業を続けられるように」
 「ここで?」
 「うん、この町で」ふっと一息つく。「僕、農業がしたいんだと思ってた。でも、それだけじゃなかったんだ。農業がしたいだけじゃなかった。この町で、農業がしたいんだ。パラグアイでもどこでもない、この町で」そして、本棚の本に目を戻す。「今なら、なぜ、松井がこの町に帰って眠りたかったかわかる気がする」
 敬太の親友の名前を聞き、栄子はシノさんのことを忘れなくていいことに気が付いた。
 すぐに会えないところに逝ってしまったけれど、ずっと、ずっと、覚えていればいいんだと、敬太に言ったのは栄子だった。そうなんだ、シノさんのことも、覚えていよう。思い出して語ってあげよう。
 「もう、シノさんとも桜は見れないけれど、」敬太もシノさんのことを思い出していた。「花見をしながらシノさんのこと思い出そう」
 シノさんは松井に会えただろうか。生前は存在すら知らなかった二人だけど、きっと、今頃、天の国で、それぞれの友人のことを噂しているに違いない。そう信じていたい。
 「僕、この町で農業したい、野菜や米を作りたい」敬太は大切な言葉を付け加えた。「栄子と一緒に」
 「…敬太」
 「うまい米つくって、うまい飯くって、うまい酒のんで、たくさん笑って、たくさん泣いて、たまにはケンカもして、たくさんの時間を一緒に過ごしたい。そして、シノさんや松井のように、この町で眠りたい、栄子と一緒に」
 それを想像するだけで、栄子は笑いがこみあげてきた。「呑んでもないのに、お喋りね」
 感情が言葉になり、言葉が感情を生む。
 「言うべきことは言うよ」そして、敬太は言うべきことを言った。「婿さんにいってもええか」
 栄子はゆっくりと深く頷いた。
 「私より長生きしてくれるなら」

                  了

あとがき


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