連作短編小説「婿さんにいってもいいか」11月
【十一月 五臓六腑】
まいった、神楽ってこんなに過激なステージだったのね。
岡野さつきはマグカップを両手で包み込むように持ったまま、身動きひとつとることもできずに、真ん前で繰り広げられる華やかな舞台に目を見開いていた。
決して広くはない神社の中に、ところせましと住民が座布団を並べて座ってる。だが、むんむんとした熱気はそこからではなく、一段高く設けられた神楽殿から発せられている。
「ありゃ、呑んどらんのんかいの?」
森脇課長が持参の水筒から熱燗にした酒をそそごうとして、さつきの手の中のマグカップの中身が減っていないのを戒めるような声を出した。
「え? ああ、」さつきはためらうことなくグイッと一口喉に流し込む。アルコールには弱いほうではない。「すみません」つがれるままマグカップを差し出す。
今日は大元神楽の日だった。
いや、正確にいうと大元神楽の夜というべきか。毎年、大なり小なり舞いはあるのだが、夜通し舞って奉納するのは四年に一度で、今年がその大元舞いの年だった。農業研修生である岡野さつきは農林課の森脇課長宅の客人として、神楽が舞われる宮に来ていた。
「課長、この寿司、うまいっすね!」
同じ研修生の早川敬太も一緒だ。課長の息子・信博と、課長の父・尚八と一緒に、隣り合って座布団を並べている集落の人たちと同じように、重箱につめてきた弁当を並べて囲んで座っている。
「奥さんの手作りっすか?」
「ん?」課長は自らのカップにもなみなみと酒をついでから敬太に答えた。「角寿司は栄子が作ったらしいで」
「へぇ」敬太はもうひとつ口に頬張った。「料理、上手なんだ」
「まぁ、数少ないレパートリーの一つっちゅうところかのぉ」課長が父親の顔になる。
当の栄子の姿は今夜はない。朝のうちに寿司を作って出掛けたらしい。確か、照空も今日は有給休暇をとっていたっけ。だが、あえて課長に尋ねることなく敬太はさらに寿司をつまんだ。
「さつきさん、」その横で、信博はまだ身動きできずにいるさつきをつついた。「そがぁに、食いつくようにみんでも…」そこで、彼女の日焼けた顔に気がつく。「あれ、今日もカヌーに行ったん?」
「え?」そこで、さつきは初めて信博に気がついたと言わんばかりに彼の顔を見た。
春に体験だけしようと思ったカヌーだが、結局はまってしまって、毎週末のようにカヌーの里おおちのツーリングに出掛けているさつきである。「なんで?」
信博はさつきの目を指さした。「メガネの跡」
「ああ、」春に川でなくしたコンタクトを買い換えることなく、そのままメガネで過ごしている。自分に正直になれたようで快適だ。「くっきりついてるでしょ?」
「はぁ、ええ年なんだけぇ気をつけにゃあ」
この町に来てすぐの頃のさつきなら、この言葉に過剰反応していただろうが、邑智郡の太陽に半年焼かれた三十五歳としては、余裕たっぷりに答えてみせた。
「はぁ、ええ年なんだけぇ、今さらって感じもあるよね」
研修が終わる四ヶ月後に何処で暮らしているかはわからないけれど、カヌーだけはやめることないだろう。
「あ、信博」
背後で若い女性の声がし、呼ばれた信博と一緒にさつきも振り向いた。
「はぁ酔うとるん?」栄子の幼なじみの小春だった。農協勤務なので酪農ヘルパーをしている信博とも、しょっちゅう顔をあわせている。
「酔わにゃあやれんよのぉ」今年の夏は酷暑で牛の乳の出が悪かった。それでなくても税金やなんやで、実際、呑んで酔わにゃあやれん酪農業と農協なのだ。
「栄子は?」
「デートじゃろ…」
そこで、太鼓の音が変調し、さつきは舞台に視線を戻した。
「大我は是れ人皇十四代の帝、帯中津彦の天皇とは我なり、汝とがむる者は何者か…」
きらびやかな衣装をつけた郵便局の田辺くんが口上を述べはじめる。
「さつきさん、そがぁに神楽が気にいったか?」今度は課長が問いかけてくる。
「あ、ええ」視線を舞台からそらさずさつきは答えた。「子供の頃、お祭りのときに小学校の体育館で見た記憶があるんですけど、そのときはこんなに近くなかったし、それに、神楽を踊るプロがいるのかと思って…」
「舞う、で」信博が間髪おかず注意を入れる。「神楽は踊るんじゃのぉて、舞う」
「ごめんなさい、神楽を舞う専門の人がいるもんだと思ってたの」さつきは素直に言い直す。「でも、ここでは、ほら、皆、知ってる人が意気揚々と踊っ…舞ってる。それが、すごく…」言葉を探すが出てこない。「すてき」
「あら可笑しなや面白やな此所に暫く立ち止まって、命の限り勝負決戦」
農協の安田くんもいつもより引き締まってみえる。
それから鬼と神の闘いが始まる。
「この塵輪ゆうのはのぉ」課長の解説が始まる。「鬼が高ぅ舞うんじゃ。あとでわしらが舞う鍾馗ゆうのは鬼が低ぅ舞うけぇ覚えときんさい」
鍾馗では信博が鬼を舞う。小柄な信博には神の役は回ってこないが、鬼の舞いのほうが困難な場合もある。この鍾馗の鬼を舞うには神楽団の中でも一二を荒そうレベルと体力がいるらしい。
「きゃっ!」
突然、神楽殿からさつきの目の前に鬼が飛び降りてくる。マグカップを持ったままカタマッテいると、信博が自分のカップを鬼の口に流し込んでいた。正しくは鬼の面の中にいる農協の安田くんの口の中に。さらに鬼があちこちから出てきて、会場のそちこちで酒をひっくり返したり、寿司をつまんだりの大騒ぎ。
さつきは面食らっていた。神楽って過激…。
そして、同時に心底から楽しんでもいた。
続いて舞われた『恵比寿』は、ほのぼのとした笑いをもたらせてくれた。地元での結婚式でも舞われることが多い目出度い舞いだ。この途中で、課長と信博が出番にそなえて席をたった。課長は太鼓を叩くらしい。
次にはじまった『四剣』は派手さこそないが神に奉納する大切な儀式舞らしく、手が込んだ長いものだった。白衣に袴、肩だすき姿で剣と鈴を持った男四人が、しおらしく舞う。決して荒い舞いではないのだが、長い上に終盤ではテンポが早くなるので、これまた体力がいるに違いない。
そして、ついに『鍾馗』が始まった。疫病を撒き散らす大疫神を鍾馗となのる素戔嗚尊が退治するストーリー。今朝から課長に何度も聞かされた内容であった…が!
「うひゃあああ…」
聞くと見るとでは大違い!
重い衣装を身にまとい、しゃがみ込むように舞う大疫神、信博。鬼の面をつけているのだけど、なぜかしら表情が輝いて見える…ような気がする。なんか、こぉ、オーラというものだろうか、『気』でているような…。これまでカヌーや搾乳をしているおとなしい農業青年というイメージしかなかったのだが…。
「幼き者はひねりつぶし、老いたる者はつまみへしゃぎ、」面で口をふさがれているが、それでも迫力ある信博の声が響く。「血気盛んなる者とみたおりは、五臓六腑にとわけいって……」
五臓六腑!
さつきの口元が緩んだ。
神楽を論外で楽しめる国民に生まれた幸せをかみしめたくなる。五臓六腑という単語をきいて内蔵だとわかる日本人に生まれて良かったと。
口上を述べおえた信博が再び舞い始める。幕をはさんで出たり入ったり、風格をもって舞う神に対抗し、中腰に落とした姿勢で舞う鬼の重圧感!
胸がたかまり、衝動をおさえきれなくなる。
「ええ舞い、ええ舞い!」
さつきは叫んでいた。
信博ってカッコイイ!
その後、課長と敬太が帰ったあとも、さつきは宮に残っていた。
夜通し舞われるといっても、終盤の『やまたの大蛇』が終わると、ほとんどの人が帰る。あれだけぎゅうぎゅうすし詰め状態だったのに、明け方近くなるとちらほら数えられる人数しか残っていない。
そんな中、さつきは毛布にくるまって、目をらんらんと輝かせて舞いに見入っていた。その視線の先には信博がいた。小柄な信博は『やまたの大蛇』の姫も演じたあと、課長の解説なしでは題目すらさつきにはわからない舞いを披露していた。それが終わり、神主たちによる最後の舞いが奉納されていると、着替えた信博がさつきの元に戻ってきた。
「おつかれ」さつきが声をかけると信博はにっこり頷き、そして…。
「ふぅ~」
一呼吸はくと崩れるようにうずくまった。
「だ、大丈夫?」
肩に手をかけるが、信博はもう寝息をたてていた。ずいぶんと酒臭い寝息を。呑んで呑んで呑みまくっての舞いあげ緊張感もとけたのか、威勢の良さのかけらもなく弱々しく丸まって。
「大丈夫じゃなさそうねぇ」さつきは目を細めて微笑んだ。「風邪ひかないでよ」
くるまっていた毛布をかけてやる。吹き込んでくる冬の朝の冷たい風に身体が冷えてくるが、なんだか心が温かい。
…なんてことだろう、私、この子のこと好きになったんだろうか。
「あ、信博」農協勤めの小春も宮に残っていたようだ。「こがぁなとこで、つぶれたら、さつきさんが困るでしょうが!」と否応なく信博を引っ張り起こす。
そんなことない!と信博をかばって寝かせておかせたい気持ちを、さつきはぐっと押さえてしまった。
「送ってってあげるけぇ、立ちんさい」小春は半分抱きかかえるように信博を連れ出していく。
さつきは黙って見送るだけ。
どう説明すればいいのだろう、この、胸の中にわきおこってきた苦々しい感情を。
明るくなった外から朝日が差し込んできた。
「あんたぁ、最後まで残っとったんね」気がつくと話をしたこともないオジサンが隣に座っていた。同じ集落の人だろうが。「まぁ、呑みんさい」抱えていた一升瓶を差し出してくる。「あんたぁ、よっぽど神楽が好きなんじゃねぇ」
さつきは黙って杯を受けた。
そうだ、私が好きなのは神楽なのだ。
舞っている信博ではない。
岡野さつき、三十五歳。五臓六腑が内蔵だとわかっても、自分の胸の内まで読めないでいる。
【十二月 年越しの盃】に つづく