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母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ 17

17.最期まで太陽の陽子さん

母が亡くなる前年、母の妹が亡くなりました。
そうです、つまみ食いをしようとして助かった叔母です。
この叔母と母と祖母の3人で、
よく集っては大笑いして楽しそうに過ごしていました。
正月やお盆に顔をあわせると、
必ず、この叔母が「うちらぁ、マンガじゃけぇ」なんて笑っていました。
サザエさん一家に負けないくらい愉快な一家だと言いたかったのでしょう。ともにつらい戦後の日々をおくった絆もあったはずです。

その叔母の通夜の席で、母は歩くことができなくなり、
一ヵ月もしないうちに要介護度が一気に5まであがりました。
それまで自宅で母の介護をしていた父もお手上げとなり、
施設にお世話になることになりました。
 
もともと持っていた心臓の持病に加え、
アルツハイマー、パーキンソン、統合失調症…。
介護福祉士の方からの説明はドラマのようでしたが、
たくさんの書類にサインをしていく父の姿はリアルでした。

「ぜったいに行かん!」と
施設に入ることをガンとして拒んでいた母ですが、
いざ、介護士の方に迎えにきていただいて、
車椅子に乗せられるとおとなしくなりました。
見栄っ張りの性格が幸いしたのか…。

コロナ禍もあり、面会もできないことがありました。
ようやく面会できるようになると、
「連れて帰ってくれ。今日は帰れるか?
 お医者さんに退院できるようお願いしてくれ」と繰り返すばかりでした。

嚥下能力が低下し、
貧血で救急に運ばれ、
誤嚥の危険もあるとの医師からの話。
父と、またひとつ決断します。
胃ろうはしない。
点滴だけ。
食べるのが大好きだった母さん。
子どものころ満足に食べることができず、
最後もままならないとは。
病院でも、これ以上の治療はできませんと言われ、
施設に戻ることに。
面会できないうちに、認知症はずいぶん進んでいました。

さかのぼること半年。
はじめて認知症検査に連れていったのは兄でした。
はい、ここで突然はじめての登場となる兄。
3つ上の兄がいます。
役者なんぞしております。
もちろん、この兄も被爆2世です。
ですが、あまり、自ら2世であると公言していません。
きちんと理由を話したことはありません。
2世であることを商売道具にしたくない…のかなと感じています。
それは、兄の事情なので、ここまでに。

で、その兄が母を認知症外来なる科へ連れていきました。
父や私の言うことには逆らう母も、兄には従順です。
ちぇ。

いわゆる認知症検査、ご存知でしょうか?
最初に机に3つの物が並べられて覚える。
それから100から7をひいて、そこからさらに7をひいて…と計算する。
今日の日付けや総理大臣などをきかれて答える。
などなどして、隠されている最初の机の上の3つの物をきかれる。
…ってな感じの。

商業科で暗算も得意だった母は、
100から7を引いていく計算もミスなく解答。
兄は「さすがじゃったわ」と脱帽。
でも、今の日本の総理大臣を答えることができず、しょぼん…。
しかーし、今の広島カープの監督は正解を即答!
さすが、広島の女ですな!
結果的にはアルツハイマー初期症状、要介1と診断されたのです。
その2か月後に叔母が亡くなり、
一気に要介護5まで落ち、
元旦は施設で寝たきりのベッドの上でした。

面会にいっても、私とわかるのか、わからないのかもわからず、
なにか言ってくるのですが、ききとれず。
兄は兄なりに母との会話を成立させようとしていました。
針仕事と同様に計算も得意で算盤も愛用していた母。
体も動かせず、天井しか見れていない状態の母に、
兄がふざけて、「母さん、30÷2は?」と問うたら、
なんと!
すかさず「15」と返ってきたのです。
すご!
私も負けずに「母さん、3x4は?」と続けると、
「もうせん」「もうおしまい」と。
それは、確かに、自分の都合が悪くなると、
すぐ話題を変えていた母の常套文句でした。
…呆けとるんか、呆けたふりしとるんか。

緊急入院や輸血を繰り返し、
血圧がさがり、
酸素吸入をし、
意識がない状態が続くこともありました。
もうダメかもしれないと呼び出され、
駆け付けると、看護師さんも驚く末期症状からの回復力で復活。
そんな状態が何度か繰り返され、
亡くなる三日前は鼻歌も歌ったりして、
最後まで、わがままなマイペースな陽子さんでした。

亡くなる前日、意識のなかった母のそばに座っていました。
ただ、座っているだけでしたが、ふと、人間は息を引き取るまで、耳は聞こえていると言われたのを思い出しました。
そこで、母の被爆体験原稿をそらんじてみました。
翌月に講話を控えていてその練習もかねて。

「陽子は9歳でした」…。
原爆が落ちる寸前まで話し、そこでやめました。
すると、母の目がパッと開きました。
そのままカーっと見開かれ、
同時に、口も大きく、顎がはずれるくらいあけられました。
そして、ゆっくりと閉じたのです。

なにごと!? 
死んだ!? 

まだでした。
まだ生きていました。

私の言葉に記憶が9歳のあの朝に戻っていたのかもしれません。
それだったら申し訳ないことをしたことになるので、
「被爆体験伝承をまかせた」と言ってもらえたと勝手に受け止めました。
もしかしたら「はぁ、やめんさい」と言いたかったのもかもね、母さん。

でも、まぁ、自分の都合のよいように解釈する能力は、
母さん譲りなので、
そう「被爆伝承はまかせた」って言ってもらえたことにしておくよ。

その夜。
「そろそろ危ないかも」と呼びだされ、
父、兄の家族、私の家族が勢ぞろいした直後のことです。
施設スタッフさんが、申し訳なさそうに告げてくださいました。
「すみません、同じフロアから、コロナ陽性患者さんがでまして…」
一同、すごすごと帰路についたのでした。

翌朝、「短時間なら大丈夫ですよ」と許可をいただき、
私は一人で母のベッドの横に座りました。
母は起きていました。
「おはよ」と言ってもなにも返してくれませんでしたが、
意志のある視線は強く、まっすぐでした。
ただ、呼吸は浅く酸素マスクをつけていました。
血圧がさがる一方で、尿も出ていなくて、
つまり、腎臓も内蔵も動きがとまりかけています…と
介護士さんに教えてもらいました。

認知症がすすんだ人は、ずーっと霞の奥にいるのでしょうか。
それとも、たまに、ふいっと戻ってこれるときもあるのでしょうか。
映画や小説なら、これが伏線で、回収すべきエピソードがあるのでしょうが、ここにはありません。
「じゃあね、仕事いってくるね」
じーっと私を見つめてくれる母の視線に見送られて、部屋を出ました。

そんな強い目だったので、
まさか、その午後に息を止めるとは想像していなく、
私は呑気に夫と娘と一緒にお寿司を食べていました。
いつもは、すぐにわかるように手元に置いておくスマホをカバンにしまったまま。
たらふく寿司を食べて会計するときにカバンの中のスマホを見て、
「うえっ!?」
父からの着信履歴が数件。

父は間に合ったようです。
声をかけると、最後にひとつ、ふーっと息を吐いたとか。
父を施設の正面におろして、
駐車場に車をとめてから入った兄は、間に合わなかったと。

ったく、最後までマイペースな太陽の陽子さんなのでした。

次回 【被爆者援護法】に つづく


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