そりゃな岩 ☺脱力系ユーモア小説

 決して高い山ではなかった。
 駐車場から三十分ちょっと登るだけで、ほどほどのハイキングと言えた。一緒に登った女房の息が切れることもなかった。それでも山頂からの眺めは期待をはるかに超えていた。信雄は設置された東屋の椅子にリュックをおろし、保冷剤と一緒に忍ばせてきたビールを取り出した。
 ぷしゅ。
 ぱかっ。
 …ゴクゴクゴクッ。
 外で飲むビールは美味いが、これが昼間だとまた一段と美味い。さらに、眼下に素晴らしい景色をとらえながらだと格別だ。きれいに整備されているのも気持ちよかった。なによりも、人が少ないのが良かった。登山客は信雄たち夫婦だけで、他に地元の人らしい年配の男性が一人だけいた。
 『年配』と自分の中で枠に入れて、信雄は小さく苦笑した。
 自分と同年代だ。
 信雄も世間的には年配者といわれる年になっていた。
 その男性は、タバコで一服していた。
 こんな美味い空気のところで、なにもタバコを吸うことなかろうに…と腹立たしく思う。しかし同時に『こんな美味い空気だからこそ吸いたくなるんだろうな…とも思う。五年前までヘビースモーカーだった自分を思い出し、信雄はまた苦笑い。
 その男性に軽く会釈をし、信雄は帽子をとった。すっかり薄くなった頭に手をやり、汗をぬぐう。それから東屋の端っこに女房と一緒に腰掛けた。女房にもビールを出してやる。昼食に包んできた握り飯も出して渡す。黙々と二つ続けて食べてから、ビールの最後の一口も飲み干す。
 「ここは、なかなかの穴場だな」
 若い頃から山登りが好きだった。国内外問わず、名のある山を登り歩いてきた。だが、五十路を越えてからというもの、里山歩きに魅力を感じるようになってきた。日帰りで楽に登り、帰路に温泉につかる。気軽であるが、決してなめてはかかれない山ばかり。ガイドブックや観光客に汚されていない低山ならではのしぶとさも発見できる。
 なんとなく己の姿にも重なるものもある。仕事一筋で生きていた頃が嘘のようだ。定年を待たずに早期退職し、広島との県境にある島根の町に移り住んできた。それも『歩ける山』が身近に連なっていたからだ。それに…。
 信雄は女房が皮をむいてくれたミカンを受け取った。
 それに、女房とも一緒に過ごす時間が持てる。
 「奥さんと仲がええんですのぉ」
 ふと、タバコの男が声をかけてきた。
 空色のアノラックをきて、同じ色の帽子をかぶっている。白抜きされたNOSAIの字が躍っている帽子の下の顔は、人が良さそうにニコニコしている。白抜きされた字と違って、口からこぼれている歯はヤニがぎらついているが。農業焼けした頬に皺がより、なんとも穏和な笑みが浮かんでいた。
 「みたところ、熟年離婚とは無縁そうで、羨ましいですのぉ」
 男はゆったりと短くなったタバコを吸い、ゆったりと煙をくゆらせながら言った。
 「ははっ、いやいや、」信雄はにこやかに手をばたばたと振りながら答えて続けた。「うちは、熟年新婚なんですわ」
 「はぁ?」
 「わたしゃあ、今年五十七歳で、家内は四十四歳ですが、去年、結婚したばかりなんですわ」そして問われる前に付け加える。「お互い、初婚でね。これまで独りで気ままな暮らしをしておったんですが、ま、縁あって…」
 「へぇ~」
 男が興味深そうに目をむけると、信雄の妻が笑いながら夫の背中を叩いた。
 「私の年齢までばらさんでもええじゃんねぇ」
 信雄はまたまた苦笑い。幾つになっても若い奥さんをもらったってことは嬉しいのだから仕方ない。照れを隠すように信雄は男に尋ねた。
 「お宅は、奥さんは?」
 「おるで。怖いんが。一人」
 男は指を一本だして、ニヤリと笑って続けた。
 「うちは娘が三人おるんだが、三人とも家を出てしもうて、今はわしと、古女房と、わしの親父と、牛の四人家族」
 「地元の方ですか?」
 「ああ、この下に住んどる」
 「そうなんですか。私たちも、一応、地元の人間のほやほやです」
 信雄が恥ずかしそうに言うと、男が『ん?』とNOSAI帽子のツバをあげた。
 「もしかして、工藤さんかな?」
 「…はい」信雄は苗字を言い当てられて、当惑気味に頷いた。
 「ほほぉ。渡里屋の空き家に、越してきんさったのは、あんたらかの?」
 「…そうですが、あの?」
 「このあいだの常会んときに、新しゅう広島から夫婦が移って来んさって、挨拶された言うて、女房が言いよりましたわい。わしゃあ、仕事で行かれんで失礼しました。松谷ですわ。そこの牛の小屋がある家の。まつやりいち、いいます」
 「まつや…りいち、さん?」
 「ああ、利口の『利』に漢数字の『一』でりいち。いつまでたってもゴールできん、リーチのまんまの利一ですわ」
 言い古した冗句のように一気にいうと、利一はゲラゲラと笑った。
 つられて信雄も笑みを浮かべる。
 「はじめまして。工藤信雄です。こっちが家内の…」
 「正美です」信雄の妻は自分で名乗った。そして、探るような目つきで利一を見て続けた。「松谷さん、役場の観光振興課におっちゃったですよね? 私、覚えてますよ」
 信雄は『どういうこと?』と目を回し、妻を見る。
 「私、十四年前に町が公募した農業体験生の研修生だったんですよ」
 「ほぉ?」
 今度は利一の目が丸くなる。
 合併した今は同じ町になったが、それまでは隣の町にあったハーブガーデンが、一年限定で農業体験生を六名募集していた。十年以上たった今も、合併した今も、一年限定で研修生を受け入れていると聞くが…。
 「私、二期生でした」
 「二期生…ねぇ」
 そのユニークな事業が始まった当初のことは記憶にある。一期生は良く覚えている。マスコミにもずいぶん取り上げられたし、隣町ということで、何度か交流事業で一緒に呑んだこともある。だが、二期生ともなると…。
 利一は、頭をかいた。
 さて、今は何期だったか?
 「あのとき、ここの志津の岩屋のことを紹介してくれちゃったでしょ」
 正美は悪戯っぽい光を浮かべて、利一を見た。
 「…あがぁだったかな」
 「あがぁですよ。あのときも、『ゴールできんリーチのままのりいちです』言うちゃったもん」
 「…あがぁかな」
 「あがぁです。その空色のアノラックも覚えてますよ。あのときも、それ、着てらっしゃいました。当時は新品ぴっかぴかだったけど」
 正美は、かなり年季のはいったアノラックを指した。
 「ああ、このヤッケ、」利一は昔ながらの呼び名を口にし、両手でそのアノラックの胸をなでながら微笑んだ。「この色は、わしのラッキーカラーじゃけぇ。長女が初任給でプレゼントしてくれてのぉ。女房には真っ赤なのを。わしにはこの色のを。お揃いで。今日みたいな暑い日でも、ここの山に来るときは、必ず、これを着るんよの。まぁ、一種の御守りみたいなもんじゃけぇ」
 「御守り?」
 利一は、指に火がつきそうなくらい短くなったタバコを深く吸い込んで、目を細めた。
 「わしぁあ、子供んとき、ここで神隠しにあいそうになってのぉ」
 「神隠し?」
 「五、六歳の頃じゃあ思うんだが。どの岩も、道も、よぉ知っとるはずなのに、歩いても歩いても同じところを回っとるようで、昼過ぎだぁ言うのに、空が急に薄暗ぉなってのぉ。心細ぉなって木の間から空を見上げたら、紅い細い雲が流れとってのぉ。ああ、こりゃあ、わしゃ、神隠しにあうんだ…って覚悟を決めてのぉ。そがぁしたら…」
 「そがぁしたら!?」
 「岩陰から爺さんが現れて、飴くれて、道を教えてくれたんよの。その通りに降りたら家に帰れたんよ」
 妙に真剣に語る利一の口調に、信雄と正美はジッと聞き入る。
 「その爺さんが空色のヤッケを着とってのぉ。それ以来、空色はわしのラッキーカラーなんよ。若い頃は、同じような青いヤッケを見つけて着とったが、娘がこれをくれてからは、ずーっと、これよの。わしゃ、死ぬるまで、ボロになっても、これを着とるじゃろうの」そこまで話すと、利一はようやくタバコの火を消した。そして、アノラックの胸のポケットから出した携帯灰皿に吸殻を入れた。 「これも、娘からのプレゼントでね」
 「ええ娘さんですね」
 「最近じゃ、喫煙者も肩身せまいけぇ」
 卑屈そうに呟く利一に、信雄は目をふせた。
 「さて、そろそろ降りるかな」
 利一は腰をあげた。
 「ご一緒しますかな?」

 弁当の包みやミカンの皮、ビールの空き缶をザックにつめ、利一を先頭に工藤夫妻が続いた。
 「ここには、よぉ登ってんですか?」
 「月に一回くらいかの」
利一は足取り軽く降りながら続けた。
 「上の草刈りしたり、ゴミを拾うたり」
 「ああ、管理もしとってんですね」
 「そがぁな、たいそうなもんじゃあないわ」
 「でも、だから、きれいに保たれてるんですよ。ここ、ゴミなかったし、東屋もきれいだったし」正美が感心した風に言う。
 「それにしても、なんで、こんなええとこなのに来る人は少ないんじゃろ?」信雄が残念そうに口にする。
 「まぁ、人がおらんけぇええんじゃない?」正美が簡単に答える。
 その身勝手な会話に、利一はひそかに苦笑する。
 「人気がないところがえんだったら、八色石のほうにも、行ってみる価値あるとこがあるで」
 「あ、それ、なが~い階段の?」正美が愉快そうな声を上げて続けた。
「そこ、行ったことある!登るときは、すっごいしんどいんだけど、降りるときは、すっごい怖いんですよね!」
 「赤馬の滝は?」足をとめず利一が名所のひとつを言う。
 「そこは先週、行ってきました。確かに、人はいませんでしたね」信雄が答える。
 利一は観光マップを思い浮かべた。「羽須美の、ありゃあ、なんちゅう名前だったかな、眺めがええとこがあるんだが…」
 「自然回帰高原?」
 「ああ、それそれ!」そこで始めて、利一は振り向いて夫婦を見た。「けっこう、よぉ知っとってじゃね」
 「ははっ、邑智郡オタクなんですよ、私たち」正美が楽しそうな笑い声をあげた。
 「ほいじゃあ、」利一も楽しくなって頬をゆるめた。
 「ここの降り方は、登ったときと、ちぃと違う道を歩いてみるかの?」
 「登山道、他にあるんですか?」
 「そがぁいうても、あってないようなもんだけぇな、岩の数だけ、あるようなもんよ。ちぃと違う岩の周りを歩いてみりゃあ、雰囲気は変わろうて」
 登山道に、ぽつん、ぽつんと、巨大な岩が距離を置いてある。どうやって、そこにそれだけの巨岩が並べられたのか不思議だ。等間隔でもないし、幾何学模様になっているわけでもないから、人工的に並べられたものとは考えにくい。だが、自然の力で、これだけの巨岩が、どうやってここに姿を定めることになったのだろうか。いろいろと想像をめぐらして歩くのも楽しみだ。
 利一は、まっすぐ降りるのではなく、ちょっと右手の岩を迂回してみた。信雄と正美も素直に後に続く。
 「あとは、眺めのええとこ言うたら…、」利一は考えて言った。「冠山かの」
 「うはっ!」
 「冠山っ!」
 夫婦が揃って愉快げな声をあげた。
 「実は、そこは…、」信雄が嬉しそうに白状した。「私らが初めて出遭ったとこなんですわ」
 「そ。去年の秋に」
 後はお喋りの正美が、待ってましたとばかりに引き継ぐ。
 「あそこ、秋ともなると週末はけっこうな登山客で賑わうでしょ? 最後のキツイ登りを行列に並んで登るのが嫌で、私、平日の月曜に登ったんですよ。独りで。そしたら、ほんっと、見事に誰もいなくて貸し切りで。すっごい秋晴れのいい天気で、三六〇度パノラマ景色独り占めっ。日本海まで見えて。もぉ、うきうき気分で降りてきてたら…なんに会ったと思います?」
 「…御主人でしょ?」
 「いえいえ、それが、熊!」
 「クマ?」
 「そう、熊!」正美が両腕を振り回して熱弁を続ける。「なーんかガサガサいってるような気がしてたんだけど、風かな?って気楽に思って歩いてたら、不意に、ウウウッって唸り声がして、三メートルくらい離れてたかな、草むらに黒い影が見えて、もぉ、パニックになって、ぎゃーっ!!!って叫んだら、うまいことに熊も驚いたみたいで、熊のほうから逃げてってくれたの。熊も、冬眠前で食べ物探し歩いてて、いきなり人間にでくわしたからビックリしたんだろうけど、あれで、とびかかってこられてたら、おしまいだったわね」ものすごい勢いで遭遇談が語られる。確かにこれなら熊も逃げたくなるだろう。「熊を見たのが、まだ中腹まで降りてなかった辺りだから、もう、そっから怖くて怖くて。車のキーホルダーと万能ナイフをガチャガチャいわせて、熊が嫌いそうな金属音ならしながら、一人で大声で歌って、半べそ状態で駆け下りて。その頃はやってた歌から、子供の頃テレビで見たアニメの主題歌、学校の校歌、童謡、もぉ、思いつく限り歌って。駐車場まで、あと五分ってとこで、この人が前から歩いてきたんですよ。でも、そのときは『助かった!』って思うよりも、もしかして、熊が人間に化けて、私を襲いにきたんじゃないか?なんて突拍子もないこと考えたりして!」
 「私もビックリしましたよ。山頂で夕日を写真に撮ろうと思って、遅めに登りかけてたら、いきなり、女の人が大声で歌いながら現れるでしょ。山の悪霊かなにかかと思いましたよ」
 「精霊にしといてくれればいいのにね」
 「…それでお付き合いを?」
 「いや、そんときは、『熊が出た』『じゃ、登るのやめて一緒におりましょう』ってくらいの会話して、駐車場でそれぞれの車に乗って別れて帰ったんですよ」
 「そ。」また、正美が信雄の話を奪った。「それで、その次の週よね? 広島の市営駐車場で、この人が車停めたスペースの隣が私の車だったの。私、ダッシュボードの上にカヌーの模型を置いてるんだけど、この人が、冠山の駐車場でそれを見たのを覚えてて」
 「それで再会?」
 「ううん、そんときも顔はあわせなかったの。それは後から知った話。その次は年末。暮れに瑞穂の道の駅で歳の市やるでしょ? 私、毎年、それを楽しみに通ってるんだけど、そこでバッタリ。『もしかしたら、これまでも、どこかで会ってたかもね』なんて話してて、『きっと縁があるんだよ』ってことになって、『んじゃ、結婚しよっか』って、ね?」
 最後は夫婦で顔をあわせて、頷きあっている。
 「それで、結婚して、この町へ?」
 「定年退職したら、山が近いところで暮らしたいって考えてたんですがね」信雄が言うと、あとは正美が引き継いだ。
 「それなら、やっぱ、ここかなって。私、研修時代に一年住んだだけで、実家のある広島に帰ったけど、本当は、研修のあとも、ここに住んでたかったんですよ。でも、仕事も住むとこもなかったし。同期ではこっちの人と結婚した子もいるけど、私には農家の嫁はつとまりそうになかったし。こんな私を嫁にしてくれそうな物好きな人、いなかったし!」正美は大声で笑って続けた。「だけど、ここ十年で、ずいぶん変わりましたよね、この辺りも。昔は、コンビニも車で二十分走らないとなかったのに。…そんなのコンビニじゃないけど」
 妻の言を受けて、信雄が続けた。「ちょっとくらい不便なのが、人間の当たり前の生活を補えるんですよね。便利な老後を迎えたいんなら、越してはきません。広島市内のど真ん中のマンションに住みますよ。仕事も好きで楽しくて、充実した人生を送ってきたけれど、でも、これからは、これまでできなかった、これまでしてこれなかった贅沢をするために、この町での暮らしを選んだんです。この年で結婚することで勇気が出たのかもしれません」
 選ぶ道が複数あったかのような信雄の言い方に、利一は、ちょっと引っかかった。
 引っかかったし、それが羨ましいとも思わなかった。
 思えなかった。
 それどころか、帰る場所がない可哀想な人たちだとも思ってしまった。
 この町で生まれ育ち、この町で子供を産み育て、この町で老いていくのが当然の暮らしであり、そうでない人生なんて考えたこともなかった。進学のために町を出たこともあった。だが、いずれは帰ってくるものだとわかっていたし、それ以外にしたいことはなかった。
 同級生に『お前には夢がないのか?』と笑われたことがあったが、生まれた町で静かに暮らすことが一番の夢であり、それしか思いつかないことを不幸だとも思えなかった。
 幸い、夢は叶い、町に帰ってこれた。
 そう、自分には帰る家も町もあった。合併して名前は変わってしまったが、娘たちにも帰ってくる場所を構えておいてやるのが、今の役目だとも思っている。だが、それも娘たちのためじゃない。自分の満足のため。
 それでええじゃないだろうか。なんの保障もなく、見も知らぬ土地で、年を重ねてから新しく生活を始めるなんて、自分には考えられない。
 利一は、ひょいっと身軽に岩を降りた。
 この岩をおりたら、そこに固い地面があるのを知っているから、足を踏み出せるのだ。
 違うだろうか?
 「利一さん、さすが、身のこなしが軽いですね」
 「…ん? あがぁか?」
 「なんかスポーツしよってんですか?」
 「なーんもしよらんが」
 田舎暮らしは、日々の生活がスポーツであり、トレーニングであり、大会だ。
 「こっちの人は、皆、年とればとるほど動きが軽いですよね」
 「拾う」
 「え?」
 「年は『拾う』もんじゃ。とったら減ろうが?」
 「…なるほど」信雄が納得する。
 「でも、町民運動会なんて、年齢層が上になるほど、活躍度が増しますよね!」正美が早口でまくしたてる。
 「あがぁかの」
 「あがぁですよ。私の母と同年代の人が、すんごいスピードで走りぬけるんですもん!私の母なんて走れませんよ、きっと」
 「神楽もすごいですよね」信雄も興奮気味に言う。「あんなに重い衣装つけて、息苦しいお面つけて、でも、あんだけ軽やかに踊る」
 「舞う」
 「え?」
 「神楽は踊るんじゃのぉて、『舞う』」
 「…なるほど」信雄、また納得する。
 「保育園に通うような子供が踊る…舞うのも本格的でしょ。高校生なんて、下手なアイドルよりかっこいいですよ!」正美の早口はおさまらない。
 「舞は、一回身に覚えたら、けっこう忘れんもんでね、」
 神楽の話題になると利一の頬は自然と緩んだ。なんとか身振り手振りで想いを伝えようとする。
 「囃子をきいたら、自然と、こぉ、身体が動くんですわ」
 「おお、ラジオ体操と同じですね」と信雄。
 「ピンクレディの歌と同じですね」と正美。
  違う。それは、なんか違うぞ。
  だが、口では勝てそうにはない。
  利一は黙って空を見上げた。
  なぜか背筋がぞくぞくっとする。
  どこかで嗅いだような匂いがしてきて、生ぬるい風が吹いてきた。
  黙っていたら押しつぶされそうな重苦しさを感じ、あえて明るく言ってみた。
 「風が出てきましたな」
  利一の声に、信雄も正美も顔を空に向ける。
 「なんだか、薄暗くない?」
 「まだ昼過ぎなのにね」
 「そうよね、まだ昼過ぎなのに…」
 「うん、まだ昼過ぎなのに…」
 夫婦で言い繰り返しながら、信雄の脳裏に、さきほど聞いた利一の言葉がよみがえってくる。
 『昼過ぎだぁ言うのに、空が急に薄暗ぉなってのぉ。心細ぉなって木の間から空を見上げたら、紅い細い雲が流れとってのぉ。』
 見上げると、木々の間から雲が見える。
 流れる紅い筋雲が。
 「…あの雲」
 ふと、人の気配がし、三人が視線を戻すと、彼らの前に小さな男の子が立っていた。
 心細そうな面持ちの。
 ちょっと時代がかったくらいに貧相な格好の。
 最近では見かけない、まるで、昭和三十年代の腕白坊主にような。
 一瞬、時がとまる。
 最初に呪縛からとかれたのは利一だった。
 「坊、迷うたか?」
 利一は声をかけた。そして、空色のアノラックのポケットから飴を出してやる。
 男の子は泥どろの掌を広げ、それを受け取る。
 利一は家があるべき方角を指した。
 男の子は小さく頷くと、くるりと踵をかえし、駆けるように降りていった。
 やがて、その小さな後姿も消えた。
 「今の、もしかして…」
 「まさか…」
 信夫と正美が互いに顔を見合わせている。
 「違うだろ」
 「違わないでしょ」
 信雄と正美は半べそをかいたような顔になってお互いを見つめる。
 「子供の頃の…利一さん?」
 「神隠しに会いそうになって迷ってお爺さんに飴もらって帰った…利一さん?」
 利一は険しい顔つきのまま、唾をゴクリと飲み込み、そして、無言のまま歩き始める。
 その後ろを信雄と正美があわてて追いかける。
 「この岩のどれかが異次元空間への入り口とか?」
 「タイムマシン?」
 「UFOかも!」
 「いやー、もぉ、山で会うのは熊と夫で十分よぉ、私ぃ!」
 不意に利一が足をとめた。
 「ど、どうしました、利一さん?」
 振り向いた利一の顔が白い。
 「利一さんっ?」
 「ここ、」利一がぼそっと呟いた。「さっきも通ったな」
 「え?」
 「この道でえかったはずなんだが」
 「え!?」
 利一は今おりてきた道を見上げ、右側の岩を指す。
 「あの岩、さっき、右手に見て降りてこんかったかな?」
 「ええっ?」
 そして下を見下ろす。
 「その岩は、さっき、左手にあったような」
 「そんなおかしなこと!」
 「私には、皆、同じ岩に見えるわ」
 「それもおかしいだろ!」
 「…迷ったんですか、私たち?」
 「遭難?」
 「神隠し?」
 「やっぱ、さっきの岩がタイムマシンなのよ!」
 「どの岩?」
 三人そろっていっせいに振り向く。
 「もうわからん。」
 「どうやって帰るのよっ!」
 三人の頭上で紅い筋雲が流れ、光が差し込む。
 その先に…。
 あ。
 岩陰に、ボロッボロになった青いアノラックを着た白髪の老人が立っていた。

                おしまい


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