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20241207_自己紹介_前田央昭

こんにちは。
越境先生の前田です。

最近よくお声かけいただけることが増え、どんな経歴の何者か書いておいた方がいいだろうと思い、まとめておきます。

経歴が気になった方は、必要に応じてこちらをご覧になってください。

なお、あくまでこちらは2024年12月時点での情報です。


生誕〜高校卒業にかけて

放っておけば遊び回る子どもだった私が、いかにして落ちぶれていくか…というお話です。

生誕〜小学校

兵庫県明石市に生まれました。
理屈っぽくてよく喋る子どもでした。
お調子者だったり、周囲が見えていなかったり。。。だったのではないかなと思います。
生まれて初めての習い事は小2で始めたサッカー。当時のチームのノリに馴染めなくて1年で辞めちゃいました。
その後スイミングを始め一通り泳法を体得して2年間で辞め、高学年ではクラシックバレエ習っていました。あと卓球スクールにも。バレエと卓球は親からの要請を断りきれなくて渋々やっていたように思います。全然上達しませんでした。
放っておいたら一生遊んでいそうだったそうで、そういう姿勢を心配した両親が習い事をさせたかったのだと思います。

中学校時代

中学では小学校時代から習っていた卓球で無双する予定だったので卓球部に入りました。しかし競技に対する向上心がなかったのでパッとした戦績を残せず、中学から始めた子達に抜かれ、明石市の総体で個人9位というなんとも微妙な結果に終わりました。一応部長でしたが生徒会執行部にも属していたので、そちらの方が居心地が良く、生徒会の仕事をぬぼーっとこなして部活に遅れて行ったりしていました。当時のやる気のある部員からするとイヤだっただろうなと思います。すまぬ。
勉強はできないわけではありませんでしたが、おそらく相対的に字を読むのが遅くて苦手だったので好きではありませんでした。わかりやすい例で言うと、クラスの他の面々は早々に回答を終わらせて暇にしているテストも、自分だけは最後までずっと解いており、「絶対自分だけできていない・・・」と思ったら割と90点近くは取れている。といったことはざらでした。
何せワークをやったりテスト勉強をしたりといった「作業」が苦手だったので、そういったものは後回しにしてとにかく漫画を読んだりゲームをしたりしていました。一方で姉二人のうち、長女は学年1位が当たり前、次女も5位以内が常連だったりということで、、、そこまでになれない自分はテストのたびに両親にめっちゃ詰められるのですが、テストが終わると全てを忘れてまた遊び回ってました。

話は変わり私が当時住んでいた明石では「総合選抜」という高校入試制度が採用されていました。これは市内の中学に通う生徒に対し一斉に試験を行い、各校の平均的な学力や通学時間がバランスするように明石市内にある6つの高校に生徒を振り分けるという仕組みでした。この制度では5段階評価でオール3に満たない生徒からオール4程度の生徒までが6校に振り分けられます。勉強ができない訳ではないが好きではなかった私はオール4程度の成績だったので総合選抜の制度の端にいました。それよりも成績が良いと各校の特進コースや国立高専などに進学できるのですが、そこまでの成績には足りない。しかし姉二人は名門とされる国立高専に進学していたので、私も高専を受けなければなりませんでした。本当はのんびり総合選抜の普通科高校に行きたかった。。。高専は推薦をもらえなかった(=受験していいような学力はない)のに無理やり一般受験して見事に滑りました。親との約束があったため、私は周囲の友人とは別れ、神戸にある工業高校に進学し、そこで成績上位を狙うことで高専への4年次編入を狙うことになりました。

しかし、志向してもいないことで戦えるほど実業高校は甘くはありませんでした。

高校時代

親との約束で工業高校の建築系学科に進学しました。(おそらく偏差値は47くらい)
読んでいて気持ち良い箇所ではないかもしれませんが、事実を書くと学力偏差的に10~15程度はなれた学校に入学し、馴染めず、しかも自分に何の目的意識もなかったので腐っていってしまいました。
入学後のオリエン合宿のようなもので同室の生徒たちが夜飲酒を始めた時は「来るところを間違えたな」と思いました。部活も軽音部に入ってみたものの卓球経験者であることが漏れ伝わったことで「来年はレギュラーだ!」と言われつつ卓球部に引き込まれ。。。結局翌年にやる気も実力もある後輩が入ってきてずっとベンチでした笑
本当はダンス部があれば入りたかったのですが、残念ながら男子が多数派の工業高校にダンス部はありませんでした。ブレイクダンスをやっている生徒はいましたが、夜の街で練習していると聞き、保守的だった自分はまさか練習に入れてもらうなどという発想にはなりませんでした。夜の街でダンスの練習…怖いよ。
とにかく、高校には腹落ちせずに入学してしまったので勉強にも専門教科にも身が入らず、ずっとゲームをしたり漫画を読んだりして過ごしました。建築学科長の先生には「前田はトップクラスの成績で入学したのに、やる気がないからどんどん周りに抜かされて、、、、」と嘆かれていました。実はこの言葉、小中時代の卓球スクールのオーナーにも同じようなことを言われていました。「お父さんはやらせたいみたいだけど、コイツは遊んでばかりだからダメだ!」と。

要所要所で主体性のなさを指摘されていましたが、そのことには目を向けず、高校では周囲の生徒を見下し、しかし自分は何もしなかった。そうこうしていると、見下していた周囲の生徒の中から建築を愛する者たちがメキメキと力をつけていき、一人また一人と輝き始めたわけです。

目的意識のある生徒たちの活躍と集中力は凄まじく、家屋や施設の設計図を手書きながら素晴らしい精度で書き上げるわけです。特に同級生のオダくんは素晴らしく、自分は建築が好きなこと・製図が得意なことを自認していました。やはり5教科の成績についてはそこまでではなかったように思うのですが、建築への情熱と実技の素晴らしさから、オダくんは一目置かれていました。この工業高校での経験は私の教育観に大きな影響を与えました。つまり「好きこそものの上手なれ」ということです。好きで得意な環境に人を置くと、もの凄く力を発揮するのだなということを知れた経験であり、学力成績は非常に偏った物差しに過ぎないのだということを実感できました。人間の優劣は学校の成績などでは計れないのです。そして人間のバラメーターはまさにRPGゲームやパワプロのキャラのようであり、得意不得意は顕著に分かれ、置き場所によっては腐り、別の置き場所ではまばゆいほどに輝くのです。

さて、私はというと、めちゃくちゃやる気がなく腐って3年を過ごしたものの、それでも5段階評価で4.1程度と中学時代の再現のような成績評価になりました。いったん関西にある国公立大の、普通科の生徒が受ける推薦を受けてみることにしました。地方国立大の建築学科への推薦ももらえるということでしたが、「この3年のモチベーションを振り返ると建築を生業にすることはできないな」と思い選びませんでした。
自分の受けた普通科の生徒向け推薦入試では口頭試問で数学の問題を出題されました。工業高校の超ぬるま湯数学に浸かっていた私は、集団面接だったことを利用し、周りの話に合わせながら初めて見るレベルの数学にそれっぽく答えました。ここで「あ、自分は普通科の子たちに比べて一般的な学力は遅れをとっているのだな」ということを実感しました。そしてちゃんとその推薦は落ちました。
工業高校は1日のカリキュラムの半分ほど専門教科に費やし、高校卒業に必要な最低限の授業を単位を落とさないように配慮されながら受けます。したがってまともな普通科の勉強などほぼやったことがありません。にもかかわらず、保険も無しに推薦に落ちました。仕方なく学力試験での大学進学を目指すことになりました。が、願書を出そうと決めた時にはもう共通一次テストの出願期間は終わっており、自動的に浪人することが決定しました。360人ほど同級生がいた中、浪人の道を選んだのは私を含めてたった2人でした。

浪人生、芸能の道、大学生時代

中学高校と落ちぶれていき、無謀な浪人生活に突入した私が、さらにグネグネと進んでいくというお話です。

浪人生時代ー前半ー

専門科目の勉強が多くを占める工業高校を卒業下のにも関わらず、なぜか浪人の道を選んだ私。神戸三宮にある今はなきECC予備校に通うことになりました。受験の知識とか全く無いのでとりあえず「国公立志望です」ということにし、国公立大理系を目指すためのクラス「KⅢ理」に入学しました。Kは国立のK
、理は理系、Ⅲは3番目のクラスという意味です。ちなみに国公立大理系クラスは3クラスしかありません。無名高校出身、または入塾テストで大した成績を出せなかった人、はこのクラスに振り分けられるようでした。(それもだいぶ後になってわかりました)言葉を選ばずいうと夢見る落ちこぼれたちのクラスです。
入学後最初の数学の授業で、私は講師の方が何を言っているのか全く理解できませんでした。そんな私の近くで授業を受けている同じクラスの人が「俺たち今こんなレベルの授業受けてて受かるのかな…」という話をしているのを聞き「え、、、こちとら一つもわかりませんけども…」とブルブル震えていました。
そのくせ志望校の理想は高く、神戸大学の機械工学科を志望していました。
浪人時代、多少勉強はしていたと思いますが、あまり身は入らず…神戸大学を受けるために生物・化学・物理なども勉強していましたがてんでダメでした。数学は数1数2くらいはわかるようになり、歴史をとっていたけど眠すぎて毎回意識を失っていました。英語はもう…これも全くよくわかりません。
国語は現代文だけやたらできて、古文と漢文は好きくなかったです。
勉強がしんどくて、、、現実逃避のために夏頃オーディションを受けに行ったりしました。

浪人中、うっかり芸能の道に

高校時代からタレントには興味があったため、息抜きと大学入学後に受けるオーディションたちの予行を兼ねて、吉本新喜劇金の卵オーディションというものを受けに行きました。
受けに来ている人たちはNSCなどのお笑い専門学校を卒業しタレントとして所属できるか否かの瀬戸際といったところでした。また、漫才師として劇場に立って既にプロとして活動している人も混ざっていました。人生をかけた緊張感に包まれている中、お気楽浪人生の自分は特に何も背負っていないので好き勝手にやらせていただきました。そしたらまかり間違って合格し、吉本新喜劇に入団することとなりました。
ここからは、週に2回程度の発声や演技に関する稽古を積みつつ、うめだ花月での若手舞台に向けた稽古などを行いながら浪人生をするという謎の期間に突入していきました。
明石から吉本本社のある難波に通うのはなかなか遠いなと思いつつ、芸人と浪人生という謎の組み合わせの活動が始まりました。

浪人後半と喜劇役者

吉本新喜劇に入団して週に数回、発声や演技・笑いの構造などに関するレッスンを受け、月に1回は金の卵ライブというオーディション合格者中心の新喜劇への出演と、そのための稽古を繰り返す日々が始まりました。
並行して、毎日予備校には通っていました。同時期に新喜劇に入った人は自分の他には4人。他の人が早々になんばグランド花月という大阪吉本のメイン劇場での新喜劇公演に出演が決まるなか、自分はいつまでもその機会をいただくことができませんでした。あまり重くは受け止めていませんでしたが、何がダメなのかよくわからないなと思って過ごしていました。今でもよくわからないままですが、思うにハングリーさが足りなかったのではないかと思います。また、少し馴染めないなとも思っていました。周りは20代半ばで田舎から大阪にきて身一つで勝負しているような人ばかり。上下関係も礼儀もしっかりしている大人ばかりの中、お気楽浪人生の19歳は失礼を繰り返していただろうと思います。実際かなりよく怒られていたように思います。

受験を目前に控えた1月ごろに吉本新喜劇のライブ出演などを1度ストップさせてもらいました。受験本番のタイミングになり、合否が出るまでは勉強の方に振ろうと思ってのことでした。というのは表向きの理由で、浪人生をしている身で半端に芸能活動をしている状況がしんどかったというのが正直なところでした。また、月に1回のライブにはチケットノルマがあり、2500円くらいだったかのチケットを毎回5人程度の人に売らなければいけないことになっていたのですが、それがまた毎回しんどいなと思っていました。ライブをやる業種の人の中では、売れない間にチケットノルマがあるというのはよくある話ですが、覚悟もないまま雰囲気で芸能の世界に入った自分にとっては、まして浪人で周囲の友達は切羽詰まった受験生ばかりという環境の中では、誰にチケットを売れることもなく、、、そんな中でも両親は毎回見に来てくれたのですが、浪人させてもらっている上にチケットまで買わせてという状況から逃げ出したかったのかなと振り返ります。

何せ、受験勉強に専念することを免罪符に、私は2ヶ月程度活動をセーブすることを吉本のオフィスに伝えに行きました。吉本の社員さんは珍しい生き物を見るような顔で私のことを見た後に、「そっかぁ。わかった。そしたら3月までは休止やな。」と受け入れてくれました。今思い返してみると、吉本新喜劇のマネージャーである社員さんは普段は破天荒な人が多い芸人さんを相手にしていますが、もともとご自身は4大を卒業した人が多い。だからおそらく「芸人が受験で芸を休むって、コイツ何言ってんの?」と思った後に「ま、でもコイツは親に養われながら浪人生してる奴だから当然っちゃ当然か」という、そんな思考の移り変わりがあの時のリアクションにはあったように思います。

なまじ芸能活動をしていた私は、受験勉強の伸びも鈍化していました。しかし、養ってもらっている親に納得してもらうためにはなんとか国公立に入らなければいけないと思っていました。また、新喜劇の中で目立つ機会がなかったため、国公立大学に入れば何かの拍子にクイズ番組に呼ばれるインテリ枠の芸人になれるかもしれないと淡い期待を抱いていました。そしてもちろん大学に入学したら、もう1度吉本新喜劇でやれることをやって、有名なタレントになれるよう頑張ろうと思っていました。新喜劇から成り上がってマルチタレントになっていった藤井隆さんのパターンを目指座していました。

とにかく、親に納得してもらえる大学に入ること、吉本の中で頭角を現しマルチタレントのコースに乗っていくこと、これらが自分にとっての大きな目標になりました。

吉本大阪本社のある難波から最も距離の近い国公立大学で、かつ昼間は舞台の稽古などに充てられるということで、大阪教育大学の夜間学部を狙うことに決め、大学の分析を始めました。


・・・続きが気になる方は♡を推してお待ちください^^

社会人時代

これから何をする予定なのか

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