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ある日、ふと気づいた。以前のように、何も考えずに物を買うことがなくなっていた。 昔はとにかく安さを重視していた。同じようなお菓子を買うなら、安くて量の多いものを選ぶし、100均にあるような商品は100均以外では絶対に買わないようにしていたし、「とりあえず買ってみよう」と深く考えずに買うことも多かった。 でも、もし多くの人が安さ”だけ”を求めてしまったら、市場には安いだけの商品が溢れ、本当に品質のいい商品が淘汰されてしまうのではないか?と疑問が生まれるようになった。 きっ
本を読んでいると、胃のあたりをキュッとつままれるような感覚になることがある。 この言葉。 いや、もう核心をズバッと突いてきてるよ、ほんとうに。数年前の自分だったら、胃だけじゃなくて心臓もキュッとなってただろう。 「頭がいい = 知識量」 この方程式が成り立つと本気で思っていた。しかもここで言う「知識」の中には、雑学も含まれている。 世界で一番深い湖は? 日本で初めてラーメンを食べた人は? 徳川歴代将軍の名前は? みたいな、一問一答の問題。たぶん、ずっと学校で勉強し
ときどき思い出す言葉がある。 この言葉を初めて読んだときは、それほどピンとこなかったのだけれど、後からじわじわと響いてきた。 とくに「習慣」について。 苦手なことでも習慣になれば、あたりまえに何も考えずにできるようになる。これは強い武器だと思う。 実際に、私は苦手だった掃除を習慣化することで克服することができた。 しかし、習慣にはマイナス面もあると思っている。 それは、「ありがたさを忘れさせる」ということだ。 例えば、ご飯が食べられていること、暖かい布団で寝られ
星野道夫さんの『旅をする木』は、私が特に好きな本のひとつだ。本を読み始めた頃、偶然手に取り、心を動かされた。 星野さんの文章は、いつも静かで穏やかでありながら、アラスカという厳しい環境を生き抜く力強さ、そして少し寂しい感じがする。 文章を少し読むだけで、どんなに雑音が聞こえる場所でも、一気に神経は研ぎ澄まされアラスカの風景が見えてくる。 もともと写真を撮ることが好きだったこともあり、『旅をする木』を読んで以来、星野さんの本を少しずつ集め、読み続けている。 その中で、「
新しいことに挑戦するとき、つい過去を言い訳にして止めてしまったことはないだろうか? 例えば、私は今こうして文章を書き発信しているが、以前は文章を書く必要に迫られても「理系だから」「本は読まないから」といった理由を楯にして挑戦することすら諦めていた。 やってもいないのに自分では無理だと決めつけ、自分の可能性に蓋をしていた。 もちろん自己理解は重要なのだけれど、それは実際に真剣に試してこそ得られるものだと思う。 『嫌われる勇気』ではアドラーの目的論のこんな言葉が紹介されて
人の想像力は素晴らしい。 小説や漫画といった創作だけでなく、商品やサービスなど、すべてが人の想像力が形になったものだ。私たちはそれに支えられて暮らしている。 しかし、その一方で、人は見えないものを想像することが苦手だ。だから、それを恐れたり排除しようとしたりする。 例えば「政治家は何もしていない」「役所なんて不要だ」「医者は金儲けしか考えていない」など、表面だけを見て、憎み罵ってしまう。
置きっぱなしのゴミ、脱ぎ散らかした服、使い終わったプリント、それらで床は埋まり足の踏み場もない。 昔の私の部屋を表す小説があったら、この一文で始まると思う。 掃除や片づけに全く興味がなかった私は、散らかった部屋でも何の違和感も覚えずに過ごしていた。掃除といえば、せいぜいカーペットをコロコロするくらいだった。 が、ここ数年、掃除に目覚めている。当時の自分が今の私を見たら飛び上がって驚くと思う。 思い返すと「綺麗な家で過ごす自分」を想像したことがきっかけだったと思う。
人は変わることができるのか。 軽い気持ちで『嫌われる勇気』を読んでいたら、いろいろと考えさせられてしまった。 アドラー心理学の哲学者が、変わりたいと願う主人公に向かって言い放つ場面である。 「自分が変われないのは、過去のトラウマや周りの環境のせいではない。自分のせいだ。不幸な状況にいること自体も自分で選んだのだ」とその哲学者は言う。
コインパーキングが苦手だ。 ゲートのあるタイプのコインパーキングはいいのだが、あの時間が経つと地面に設置されたストッパーがガチャンと上がってくるタイプ。あれが苦手だ。 ガチャンと上がってくるタイプでも2種類ある。 ひとつは、ロック板が地面にしっかりと埋め込まれているタイプ。これはそこまで苦手ではない。駐車するときに違和感がないからだ。 少し心配なのは、駐車をして曲がってしまったとき、切り返して入れ直そうとする途中で上がってしまわないかということだ。
そのカフェは2階があるタイプのカフェだった。 いつものようにカフェラテを頼むことは決めていたが、なんとなく迷ったふりをしてカフェラテを頼んだ。 既にメニューを決めていることが少し恥ずかしく、店員さんに「この人はカフェで頼むメニューを入る前から決めてきているのか。どれだけ楽しみにしているのだ」と思われそうだからだ。 カフェラテを受け取ると、2階まで階段を上り、読書をするために周りに人が少ない席を吟味する。 読書をすること1時間。 時刻は閉店20分前。10分
家で読書をするようになって気が付いたことがある。 リビングでの読書は集中できない。 どんなに本を読む気持ちがあっても、リビングだとなぜだか集中できない。過去の自分を振り返りると、集中して読書ができた場所は人の少ないカフェ、お風呂、廊下。 この違いはなんだと考えたときに思いついた一つの要因。 それが「照明」。 これまで照明を意識したことほとんど無かったのだけれど、カフェはどこに行っても居心地がいい。ゆっくりした雰囲気、美味しいコーヒー、美味しいケーキ、居心
先日、思い立って片道2時間30分もかけて長崎県の波佐見に行ってきた。 「波佐見焼」を買いに行くためだ。 ちょっと前に読んだ羽田圭介『滅私』を読んだときに「好きなものに囲まれて暮らしたい」と感じたことがあった。 作中で主人公は貰ったものをすぐに捨てるので、多少嫌悪感を覚えたが、ものをすぐに捨てるのも、適当に使い続けるのも同じな気がした。
本屋に行くと困ることがある。 新発売の単行本、文庫本がものすごく魅力的なのだ。 本屋の入口には新しく発売した本がいくつも平置きで積まれ、その表紙が仲間になりたそうにこちらを見ている。 そこを無視して通り過ぎることは私にはできない。が、本を読んでいるとよくこのような言葉に出会うことがある。 「過去の名作を読んだ方が良い」 つまり新しく発売された本というのは、名作か駄作かわからないから、名作と呼ばれるものを読んだ方が、効率が良いということだ。 言っていることはよくわか
多様性について考えさせられた本がある。 『正欲(朝井リョウ,新潮文庫)』。 多様性と言うと、LGBTQ+やルッキズム、変わった趣味などが取り上げられることが多い。 最近では、特に令和では昭和の頃に比べ、市民権も得てあたりまえになってきているとも思う。 では、これが多様性の全て、もしくは大半を占めるのかと言うと、そういう訳ではないと思う。