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田舎の田んぼの持続性を阻むのは、多収神話、か

前回まで今年のコメ作りの失敗と、田舎でのコメ作りを難しくしている経済的なだけでない様々なコストについて書いてきた。

そして、果たして『夫婦共働きの我が家が田んぼを続けていくことは現実的なのか、また中山間地におけるコメ作りがどこに着地していくのか、あるいは着地すればいいのか』と考える中で、持続可能なコメ作りを考えるにあたっては、そもそもなんでこんな状況になっているの、を知る必要があると思うに至った。
そこで『自分たちの営みを相対的に位置づけてみること、つまり、古来からのコメづくりの変遷や、社会・文化との結びつきなどを多層的に学ぶこと』で、その着地点を探すヒントがあるのではないか、と思い立ち、稲作を社会科学や人文科学的な視点で論じる書籍を読み漁ってみた。

このnoteでは筆者が岐阜県恵那市に移住して12年の農村暮らしから見えた視点をお届けしてます(所要時間8分)。


その中から導き出した一つの結論としては次のようなことだ。
田舎のコメ作りの持続可能性を高めるということは、田んぼを食糧の生産機能として捉えるのでなく、経済性と切り離した「ほどほど」への転換が必要、ということだ。

コロナ禍ではいつ物流が止まるかもしれない、という予測不可能な事態が現実に起こりうることを知った。ロシア・ウクライナの戦争でも、資源や物流を海外に依存している限り、海外の事情がそのまま自分の日常生活に支障をきたす不安を味わった。

このとき、そばに食べるものが実る田んぼがある、ということがどれだけ安心であったかは、ここでの暮らしを積み重ねてきたからこその実感であった。このような不測の事態に備えて、できる限り資源を地域内でまかない、循環的な農業を営むことが必要だとも感じた。
が、それは同時にそのような方法で田んぼを続けていくことがどれだけ大変なことなのか、毎年記録的な少量の収穫によって身をもって知ることとなった。

食糧自給としてのコメは100%を確保することが望ましいが、ひとまずここではそれは大規模化が可能な生産地が担う部分として話を進める。

なぜ、田舎のコメ作りは難しいのか?

前回にも触れたように、兼業という体ではあるが実質農家ともいえない、数反しか持たず自給目的や慣習でコメ作りをしているような山あいの田んぼの総面積は全体の1割程度であり、専業化や収益を出すための農業は今のところ難しい。

食糧自給率にもまったく貢献していないわけではないが、逆に食糧自給率をここのセグメントに頼って強化することは、高齢・過疎化の進む地域にとってはかえって大きな負担となるだろう。

詳細は前回の記事を参照にしてほしいが、田んぼにかかるコストは中山間の世帯には大きな負担になっている。
試算すると、うちの近辺で標準的な4反(約4000平方メートル、約65メートル四方)の田んぼで、収量の多い慣行農法での平均収穫量500㎏×4=2000㎏が穫れたとして、農協との取引価格60㎏1万5千円ではおよそ50万円ほどの売り上げでしかない。ここからガソリンやら農薬・肥料などの経費を差し引くと、手元に残るのはお小遣い程度。「コメは買った方が安い」と地域の方々は口にするように、1反単位では赤字状態であり、新しい機械など買おうものなら、何年経っても償却できない代物である。

慣行農法ならそれなりに仕事の合間の片手間でやれなくもないが、それでも半年にわたるこの作業から得られる対価を鑑みると、特に町へ働きに出る若い世代にはそこまでして田んぼを営むモチベーションがない。

多くの場合、ご先祖様が切り開いた田んぼだからと、せめて荒らさないように農事組合法人に自腹を切って委託するか、もっぱら定年後の世代の方による趣味の一つと化しているのは全然ましで、耕作放棄地の増加は当地でも年々増えている。

無農薬栽培、自然栽培など、付加価値つけて高価格で販売すれば、という声も上がるが、仮に倍の値段で全て売れたとして想像はつくだろう。さらにほとんどの場合、こうした農法では慣行ほど収穫できない。何より、無農薬によって雑草を抑える労力は並大抵のことではない。まさに片手間にはできない。

袋小路に入ったような田舎の田んぼ事情であるが、今後どのようにしたら持続可能になるのか、やみくもに答えを探しても、果たして本当に効果的なのか、かえって様々な持論が展開されるだけで、混乱をきたしているように見える。

そもそも今なぜこのような状況にたどり着いているのか、多角的な視座から検証してみることで、こうせねばならない、こんなことできない、という思考のたがを外すことができるのではないだろうか。

コメ作りの歴史を紐解く:多収神話と自然との共存

そんな思いの中で調べていたら一つの仮説が浮かび上がってきた。

「そもそも穫り過ぎなんじゃね?」

つまり、面積当たりの収穫量が、本来土が発揮できる能力をはるかに超えているのではないか、ということである。

以前にも自然農がなぜ成立するのかを考えていたときに、同じようなことを思いついたことがあった。

稲作における獲り過ぎとはどのようなことか、まずは歴史を遡ってみてみよう。

江戸時代の農業と社会構造

以下のグラフは農学者の佐藤洋一郎氏の研究による1反あたりの収量の推移を表している。
これを見て何をお感じになるだろうか。

(佐藤洋一郎『稲の日本史』.角川書店,2002 p185)

現在の化学肥料や農薬を用いた慣行農法での平均的な収穫量は、年や地域によって変動するが、ここ数年はおよそ530㎏あたりで推移している。

過去の収穫量については、品種の変遷や田んぼの条件によって幅が大きいが、間を読み取って弥生時代で150㎏程度と推定できる一方、明治20年の調査では180㎏との数値が残っている。

江戸時代といえば、農業技術の革新により、生産性が向上したとされる時代であり、それまでと比べて3割増というだけでも、当時の実感としては相当に増えた、と感じられたのだろうが、明治時代からさらに3倍に収量の増えた現在の基準から比べると、『微増』と言っても差し支えないだろう。

当時の経済は「石高制」という、各藩の経済規模を米の収穫量で示す米本位制によって支えられていた。この仕組みのもと、基本的に米は武士階級の給与や都市部住民への商品であり、米の生産量がそのまま藩の経済力に直結していたため、各藩は稲作を重要な政策の柱に据え、生産力向上に力を注いでいた。

米の増産は江戸時代中期に新田開発が盛んになったことで、耕作面積を倍増させている。人口が増えるが先か、田んぼが増えるが先か、どちらであるかは定かでないが、いずれにせよ相乗効果でどちらも増え続けていた。

土地改良と農地・農業用水:関東農政局

また、稲作の連作が一般的になったのものこのころだ。江戸時代以前の稲作は、数年ごとに耕作地を転換する方法が一般的だったとみられている。つまり毎年同じ圃場で稲作を行わず、いくつかの圃場を順番に使い、土を休ませながら農地の地力を維持する工夫がなされてた。この方法は、アジア各地で見られる循環的な焼畑農法に似ていて、日本でも縄文時代の陸稲栽培では、焼畑で稲を育て、2~3年ごとに栽培地を変えていたとする研究もある。
日本の原風景をして思い浮かべる平野一面を覆い尽くす水田、という景色は江戸時代中~後期にやっとみられるようになったのだ。

しかし、米=経済価値となったことで誰もが収量増を望んだ結果、面積が増えたうえ毎年同じ圃場で稲を育てるようになったり、収穫したコメの多くは外部へ持ちだされていたので、地域内で自給できる人畜の下肥や里山の草など、地域内の有機排出物を再び圃場に投入しても、土壌中の有機質の収支はマイナスになる。このように地域内の循環で耕作地全体がまかないきれない事態が生じたことも、都市部から排出される下肥をはじめとした外部資材に頼る一因となった。

ここまでしてもなお、弥生時代から”微増”程度である。

今年も自分の田んぼでは周囲に比べたら恥ずかしくなるほどのコメしか実らなかったのだが、草にまみれながら、楚々と控えめに粒がついている姿は、長い間日本ではごく普通の光景であったに違いない(?)

左が我が家、右が日本有数の米どころ。うちの田んぼは江戸時代の姿だと言い張ってみる…

一説によるとこの江戸時代の新田開発のあたりから、村里の営みも変容しており、水田維持のコストがあがり持続性が失われ始めていた、とも言われている。

明治以降の農業の近代化

明治期以降は、品種改良や、西洋からの化学肥料の導入、水田自体も西洋の技術者によって改良され作業性が向上したことなどによって、爆発的に収量が上がった。昭和30年ごろにはさらに収量を上げるため植え付ける苗の本数を増やす密植での栽培が定着し、密植が引き起こす病害や稲以外の雑草を抑える農薬の普及も戦後から本格化、田植え機やコンバインなどの農業機械も80年代には、当地のような小規模の家庭農家でも一家に一台ずつ持つようになり、高品質で安定した生産が可能となっている。

このように見てくると、一面に広がるたわわに実った黄金色の稲、の姿は近代の産物であって、江戸時代までおこなれていた有機的な農法と比べることに無理がある。

逆に言えば、明治以降、田んぼに無理させてるな、という感じが見て取れる。
化学肥料は有機質の分解を待たずとも、必要な養分を粒剤などで補給できるが、収穫として持ち出した分の有機質が田んぼに戻されない。
病害に強かったり、実付きの良い品種を品種改良によって生み出したのは良いが、土の力が吸い出されていくばかりに見える。

自然の循環の仕組みで回せる範囲を超えてしまえば、どこかにしわ寄せはやってくる。それが今になって耕作放棄地の増加としてあらわになったのは必然なのだろう。

多収穫神話と自然とのバランス

とはいえ、このような農業の進歩がなければ自分は存在していなかったのかもわからず、多くの人が日本と言う国に豊かさを感じる源泉になっているのは間違いない。

この増産に向かう動きが膨らんでいく中で、土と作物の間のバランスがひずみ、環境問題を引き起こす因子にもなっただろう。しかしこれは何も国家権力の失政だ、ということではなく、近代化や医療の発達により人口が増加する中で、従来の生産性ではと人口を支えられなかったからこそでもある(それでも足らずに日本は国外に生産地を求めに進出していく)。

今自分たちにできるのは、この豊かさを踏まえて、自分たちの立ち位置を見直しみることにあると思っている。穫り過ぎを問題にするのなら、過去の時代に比べれば自分の生活が「食べ過ぎ」「捨て過ぎ」にあふれていることも自覚しなければならないだろう。

希望としての有機農業

加えて言うなら、有機農業をしようと思ってうまくいかないケースが多くみられるが、コメに限らず、ほとんどの野菜の品種が、慣行農法で育てやすい性質や大きく育つように品種改良されているものであり、多肥を前提とするものが多い。また農業機械も慣行農法を前提としており、少肥で背丈が低く無農薬で雑草混じりの田んぼで使うのは、故障のリスクが伴う(実体験)。
有機農業は単に有機資材を投入するだけの話でなく、種選びから、資源の循環まで、トータルで作物と向き合うことが要求される。
何より、多収を目指す、という方向も大事だが、継続する、という視座を持つことで、我々人間自身もほどほどの暮らしで満たされることに慣れていきたい。
もちろん、有機農業で慣行並みの多収かつ自然の循環を高いレベルで実現させている農家さんもいるので、そのような人たちの知恵が広がり、今いるたくさんの人口の食料を補うための農業との融合が進んでいくことが期待される。

持続可能なコメ作りの道:多収穫から多様性へ

以上のように、もし「作り過ぎ」が田舎のコメ作りの行き詰まりを招いているのなら、田んぼを食糧の生産機能として捉えるのでなく、人間が山間地で暮らす営みが自然環境に無理を与えない、ほどほどな営みに換えていくことが、田舎のコメ作りの持続可能性を高める鍵となる。

特に、我々夫婦のような普段仕事を持ちながら田んぼを営む、多くの中山間地の人々にとって、その心理的な負担をまず減らすこと、つまり、「自然な形で、自分たちのペースで」できる範囲でやる、と継続のハードルを下げることが必要だろう。

隣の田んぼはこんなに実ってる、という人並みに揃えなければ、というプレッシャーが存在するのも確かなので、簡単にはいかないだろう。
だが、5人家族が一年で消費する米の量から言えば1反もあれば、有機栽培で達成できる。山間地の世帯ではだいたい1反程度の圃場を複数枚保有していることが多く、これを”焼畑方式”で2~3年おきにローテーションすれば(実際に焼くわけではないが)、連作による負担も抑えられる。当然農薬や肥料などの経済的負担も抑えられる。

むしろ「ほどほど」を心がけることで、地域の人たちが「ご先祖様が切り開いてくれた土地を守る」というニーズを継続して満たせる可能性が高くなるのであれば、収量を下げることは悪い話ではなかろう。

絵に描いた餅、とはいえ、もう耕作放棄地が増えている現状においては、自然にコメ作りに対する「せねばならない」という縛りがほどけかけているようにも思える。
無理なものは無理と、必ずしも維持し続けることばかりが良いとも限らない。そのような状況であれば、収量が少なかろうが草まみれだろうが、誰も気にかけないという日も来るのかもしれない。田んぼが自然に戻っていけばいったでその世界線での新しい自然が生まれているだろう。

自分の田んぼをどう続けていくか、という点においては、できる限り身の回りの資材で地力をまかない、草の抑制に労力をかけずに自然な形で栽培していくために、様々な方策が考えているが、それは来年以降に実践してからまたその成果をお伝えしたい。
さすがに人糞はなぁ…

コミュニティの力:楽しさとつながりが生み出す持続可能性

最後に、そうはいっても田んぼがある田舎、というのは、食糧生産や環境維持以上に、やすらぎや懐かしさなどを思い起こさせる力がある。思い通りいかないこともまた自分の存在の小ささを思い知るために、こんなにも便利で豊かな世の中になったからこそ、貴重な存在でもある。
なんとかこの世界を残したい、という気持ちで続けているわけだが、続けていくのに忍耐だけではやっていけず、やはりそこには「楽しさ」が必要だ。

今回コメ部として作業したり成長を一緒に見守り、収穫を祝う、こうした仲間とのひと時があるということが、持続のための何より大事なことだと実感している。持続可能性は経済性が伴う合理的なシステムが不可欠なのかもしれないけど、それをドライブさせるには、楽しさというシステム化できない、人と人との関わりが必要だ。

田んぼを持っていることはある種の特権ともいえる。それを活かして、損得の話を少し超えて、身近な友人でもいいし、体験の場としてネットで募った人でもいいし、何かしらいろんな人が関わる場に換えていくことを、多くの中山間地の田んぼの持ち主には勧めたい。

田んぼに人が集まる、そのような光景はおそらくつい「昨日までの世界」では当たりまえにあったのだろうから。

コメ作りに失敗した壮大な言い訳、という自覚はある。そりゃたくさん穫れたら嬉しいわ。

参考文献

  • 佐藤洋一郎『稲の日本史』 角川書店,2002

  • 原田信夫『コメを選んだ日本の歴史』 文藝春秋,2006

  • 大貫恵美子『コメの人類学 日本人の自己認識』 岩波書店,1995

  • 武井弘一『江戸日本の転換点 水田の激増は何をもたらしたか』 NHKブックス,2015

  • 安成哲三『モンスーンの世界』 中公新書,2023

  • 養父志乃夫『里地里山文化論』 農文協,2009

  • 菊地有希子『弥生時代中期の稲作と集落』  早稲田大学リポジトリ,2009

https://waseda.repo.nii.ac.jp/record/3169/files/Gaiyo-4915.pdf


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