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社会不適合者
人間は社会的な動物なので誰とも関わりを持たずに生きると言うことは難しい。
親がいて兄弟姉妹がいて、親戚がいて先生がいて友達がいて、部下がいて。家庭、学校、職場と形は違えど、それぞれ社会的な場所で自分の居場所を作りながら生きています。
社会不適合者という言葉が
安易に使われている世の中に不安を感じる時があります。
私の長男は場面緘黙症で、次男は HSP の気質があります。
HSPは人口の20%ほどと言われているので、少なくはないかもしれません。それに、アレルギー以外の身体的な病気はないので、世の中の人と同じように生きていくことは可能です。長男に至っては、まだまだ未知数です。
二人とも平均で言えば少しズレているかもしれません。
だからといって自分たちを社会不適合者だと思って欲しくないのです。
個性として受け入れて自分の居場所を見つけて欲しいと思っています。社会的な観点から見て、ズレていることと個性があることは全く別だと思います。だから、個性があるから、社会的に受け入れなれないとは思いません。むしろ、そのズレている個性を受け入れる器量があるのも、人間的なものだと思います。人が集まって社会を作り、その人たちの社会を守るために学校や職場があるとしたら、そのズレた人がうまく生きられる場所も社会であるべきだと思うのです。
少しズレた子供を社会のお荷物にしないために教育をすべきかどうか、私にはわかりません。苦労のないように、人様に迷惑をかけないレベルまで育てていく覚悟があるけれど、彼らが独り立ちして生きていく社会がどうなっているのか私には想像もつきません。普通に生きていくことが倫理的にも金銭的にもどんどん難しくなっているようにも思えます。インターネットの普及で可視化できるものが増え、良くも悪くも人の価値観や社会的な活動に大きな変化が生まれています。人間が人間を不要とするとても不思議な時代がやってきているように思います。それでも人口は増え続けているという矛盾。どうなるのでしょうか。子供達には resilient (弾力性)を身につけてもらいたい。どんな社会になっても、不適合者と言われても、それでも社会で生きていこうとする強さを持って欲しいと思っています。
社会という概念が存在するのはある程度の人数の共通認識や価値観に重なるところがあるからです。そしてそれは人間であれば、ある程度備わっている良心・情緒のようなものだと思います。地球上には人間が存在するために必要なものが備わっているのに、どうしてこんなに生きづらいのか。
夏目漱石の「草枕」の冒頭を読んだ時に、とても共感したことを思い出した。
智に働けば角が立つ、情に棹せば流される、意地を通せば窮屈だ、兎角にこの世は住みにくい
多分、多くの人が窮屈に感じたり、辛い思いをしたり、社会の中でたくさん学ぶことがあると思います。ただ、辛くても生まれた限りは、生きていかないとしょうがないわけです。どうして、生きづらいと思うのか。辛く思うのか、その要因をできるだけ早めに究明して、その要素をできる限りミニマムにする努力は必要です。社会や周りのせいにしていては、何も始まりませんから。
ただ、夏目漱石が生きていた頃よりも、今が生きやすくなっていると思いたい。
そうなくてはいけない。そして、私もその責任を負う社会の一人として、生を全うすべきだと思います。