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 ~母と娘の旅立ち~大きなパラダイムシフトだった~

朝ドラ「舞い上がれ」に蘇ってきた、私の思い

最近このドラマに力をもらってます。
それは何故かというと、
2009年私もまた、そのまっただ中にいました。

当時の自分の中にもあった魂の叫びや、
この危機を乗り越えていかなければという
強い使命感を思い起こさせてくれるのです。

今の時代も大きな変わり目がきてると思います。

その頃も、「経営者本人や家族、従業員達が
同じような経験をし、環境を変え、人によっては
心や体が蝕まれたり、悔しい思いをしてきた人が
どれだけ多くいたのだろうか・・・」と・・・

舞のお父さんが亡くなった時は、本当に心が剔られる
思いになってしまいました。

でも、日を追うごとに、舞のお母さんは、
目力、顔付き、言葉を発するときの強さ、
腹をくくり、社長の奥さんから、
『IWAKURA』の経営者として成長していく姿を
見せてくれました。

そして、今これを書いている私の中にも
それを呼び覚ますような熱い気持ちが蘇ってくるのです。

私の体験の始まりはもっと以前の1999年頃に遡ります。
絶対的な社会地位を築いていた、大きな証券会社の倒産から
それは始まったと、私の中では記憶しています。
次々と銀行が統廃合され、社名も変わっていった。
この時も、それまでの経済の時代が終わったような時期でした。

そして業界は違うけど、あるメーカーに勤務していた私もまた
その煽りを受けました。

1980年代に普通の一般事務として入社し、
当時は結婚退職が主流、バブル世代とも言われた頃
同期や後輩達が次々と退職する中
私は、母を扶養している大黒柱という立場上、
他の道を選ぶ自信がなかった私は
いつもまにか40歳手前・・・。

そして、2000年、地元から300km離れる
最初の転勤の相談がありました。

後で思えば、お局様の私、会社はすぐに
辞めてくれると思ったのかもしれませんね^^;

営業所の女性が結婚するから、
その後の事務を新卒から雇う余裕は
今の会社にはないという理由。
その後、次々と営業所を閉鎖していきました。

見知らぬ土地への転勤の話をしたときに、
母は「私を殺す気か!」と詰りました。
30年近く同じ場所に住み慣れたところ、
市内の違う区に引っ越しをする事も拒んでいた母でしたから。

娘が大黒柱の世帯、
女性一般事務のお給料で、将来どうしていくのか・・・。
母はもう70歳になる頃、
当時では、そろそろ介護の心配も出てきた頃です。
テレビでは「母一人、子一人、介護に追い詰められ、心中自殺」
そんなニュースも度々目にしていた時でした。

私にもあったそんな不安、そんな事、悲しすぎる!

けれど、私は、ここで、母の娘という立場から、
やっと、『私』という『アイデンティティ』をもつ
『私』が発動したのです。

もしここで、母の言うとおりに転勤を断ったら
私は母が未婚で私を産んだことを一生恨むかもしれない
と思ったのです。

そして、私に着いて来てくれたら、社宅もあるし、
家計も助かる。
母が、私に着いて来てくれたら
『私は母に感謝の気持ちを忘れずに
人生を歩む事ができる!』と思った瞬間でした。

私自身も、信頼していた上司や周りの人に相談しながら、
転勤を前向きに捉えられたとき、
母も、安心したのか、
『新天地での生活に挑戦しよう!!』
と答えてくれたのです。

そして、ここから、住み慣れた土地と
思い出が詰まった、二度と戻らないであろう
家の鍵を閉め
お互いのボストンバックを肩に抱え、
新天地を目指し、私と母の新たな旅が始まりました。

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