J・D・サリンジャー 『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア—序章—』

★★☆☆☆

 サリンジャー読者にはお馴染みのグラース家ものの二篇がおさめられている一冊。近年、サリンジャーの作品は新訳で出版されていますが、今作は往年の野崎孝訳(『シーモア—』は井上謙治訳)です。
 新訳はいまのところ出版されていないようですが、読むとその理由がなんとなくわかります。というのも、『大工よ—』はともかくとして、『シーモア—』の方はけっこう特殊な小説なんです。2000年代になってから新訳された3冊と比べると、あまり読者の間口が広くない印象を受けました。

 サリンジャーは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』以降、グラース家のサーガに取り組んだのですが、いわゆる小説らしい小説から段々と離れていくんですよね。『ズーイ』にもそういった節がありますけど、まだそこまで逸脱してはいません。でも、『シーモア—』はかなり変わった小説です。

 その一端は、グラース家ものの主な語り手である次兄バディの設定にあります。このバディ・グラースはサリンジャーの投影です。腹話術みたいなもので、人形がバディ、腹話術師がサリンジャーといったところです。
 それ自体はよいのですが、バディの声のどこまでがサリンジャーで、どこまでがバディ・グラースという架空の人物のものかが判断しづらいんです。その判断しづらさのレベルが『シーモア—』ではかなり上がっています。
 たとえば、作中にサリンジャーの短編『バナナフィッシュに最適の日』をバディが書いたと匂わせる文章が出てくるんです。そうなると、読者としてはバディ=サリンジャーの印象が強くなりますよね。一人称で書かれているので、余計にそう感じるはずです。しかし、もちろんバディはそのままサリンジャーではありません。そのあたりの兼ね合いが読み手の誤解(印象のずれ)を誘います。
 要するに、サリンジャーがバディとしてシーモアについて書いているという入れ子構造(サリンジャー≒バディ→シーモアという図式になるでしょうか)になっているわけです。
 くわえて、その独白の内容は、グラース家長男であるシーモアにまつわるエピソードと自己言及です。それらをひたすら能弁に語るだけで、物語性はほとんどありません。
 入れ子構造と取っつきにくい内容という2点が、この小説を敷居の高いものにしていると思います。

 その一方で、『大工よ—』に関しては、語り手はバディですけど、書き手の存在が前面に出てこない分、一般的な小説としてすらすら読めます。ふつうに書けば、高いクオリティの文章をあっさりと(かどうかはわかりませんが)書けるんですよね、サリンジャーは。でも、隠遁生活の影響か、いまひとつわかりにくい方向へいってしまったのです……。

 余談ですが、『フラニーとズーイ』にもそういった傾向がありました。『フラニー』パートの素直な文体に対して、『ズーイ』パートの特殊な文体という二項的な構造があったわけです。雑誌ニューヨーカーに掲載するにあたり、そういった配慮が必要だったのでしょうか? そのあたりのことはわかりません。ひょっとすると、伝記を読めばわかるかもしれません。

 ところで、僕は割と本を読むのが遅い方なんですね。一文一文をしっかり読むので、時間がかかってしまうわけです。普段はそれで問題ないのですが、『シーモア—』に関してはそれではまずいと、途中でギアを上げました。というのも、文体がむちゃくちゃに能弁なんです。『キャッチャー—』のホールデンの語りと似たところがあって、とにかく畳みかけるように語るんです。内容もこみ入っているし、一文も長いので、ゆっくり読んでいると、意味がとれなくなっちゃうんですね。
 なので、バディのヴォイスに合わせて読む速さも変えたわけです。文体に合わせて読むスピードを変えるというのはあまりしなかったので、新鮮な感じがしました。

 まとめると、ぜひお薦めしたい小説とは言い難いのですが、サリンジャーが好きな人なら一読の価値はあります。順番としては、最後の方でよいと思いますけど(まちがっても最初に読むのはいただけません)。
 ちなみに、本作の後に発表された『ハプワース16』という小説があるのですが、それについて語るのはさらに難しそうです……。

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