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200126 Compassionate Systems Workshopから帰国したときの雑感

MIT J-WELでのピーター先生とメッテ先生のワークショップに、かえつ有明と三田国際の先生たちに参加してもらい、いろんなアイデアが生まれたり、ピーターに直接結婚(予定)のお祝いを言ってもらったり、とても楽しかったんだけど、3日間の通訳を終えて声が出ない。ケホケホ。

以下雑文。

○ このCompassionate Systems Workshopは、2018年に始まった。それ以前はカリフォルニアの某財団の支援で別のワークショップをやってたんだけど、今の体制になってから急激に世界中に広まっている。

国際バカロレア(IB)をはじめカリフォルニア州、カナダのブリティッシュ・コロンビア州、ヨルダンの教育省とセーブ・ザ・チルドレンなどのNGOに加えて、アジアにもIBスクールを中心としてジャカルタにハブができたり、3月に香港でWS開催されたり。あと今回が超満員だったので6月にもボストン追加開催が決まった。よく見ると、ウェブサイトにもパートナー団体が紹介されている。

Introduction to Compassionate Systems in Schools | June 2020 – Center for Systems Awarenesswww.systemsawareness.org

さて、これらの取り組みのきっかけは、2014年ピーター先生とダニエル・ゴールマンの対談と、そのあと出版された薄いブックレット『The Triple Focus』(未邦訳)。先生やSoL Ed Partnershipが進めてきたシステム思考の教育と、ゴールマンが関わってきたSEL(情動と社会性の学び)が、とっても相互補完的だって気づきから始まって、今の共同ファシリテータのメッテが実行役として参加した。

○ ここからは私見。この「相互補完」の1つの側面は、システム思考に対するほんとによくある誤解を、SELのアプローチが埋めてくれるってことかと思っている。その誤解とは「システム」と聞いたときに、自分の外側にあるものをイメージしてしまうこと。「システムはあっち側にある」問題だ。

「世の中の複雑な問題も、システム思考を駆使して理解し、レバレッジポイントを見つければ、魔法のように綺麗に解決できる」みたいな、よくあるシステム思考の解釈からしばしば抜け落ちてしまうのは、私や、私の思考や感情が、そのシステムの内側にいるということ。システム思考の普及に努める人たちは、「内因性」という言葉で、そのことを伝えようとしているんだけど、巷での理解でいうと「あー、システム思考ね」みたいなコメントの背景にあるのは「あっち側」の解釈。

故ビル・オブライエンの名言「システムへの介入が成功するかどうかは、その介入者の内面の状態に掛かっている」が真髄だ。違う人が同じツールを使うと違う結果が出るんだよ。よく考えられた論理的な提案への、もっとも自然な反応が「いや、お前が言うな」だったりするのはそういうことだ。

○ システムを外側にばかりあるものと捉えると、少なくとも2つの悪影響が生まれる。1つは、問題を客観的に捉えて分析し、解決策を見つけて実践するという「診断型」アプローチ(=技術的な解決策)を、私のアクションに応じて刻々と状況が変化し、常にフィードバックを感じ取っての適応が必要となる課題(=適応型の課題)に当てはめようとしてしまうこと。

もう1つは、診断型のアプローチによって、問題を客観的に分析できることを期待するあまり、「システム思考って難しい」問題が生じること。システム思考が難しいのではなく、現実が複雑なのだ。技術的な難しさもあるかもしれないが、全体像をつかむのが難しいのは「あなたがそれを見ているから」でもある。システム思考はある意味チームスポーツで、衆知を集めるプロセスだと思う。抽象度を上げれば、取っ付きにくさの元凶は、理解する側と理解される側の分離というメンタルモデルにある。

○ 翻って、Compassionate Systemsのアプローチの良いところは、SELの要素が加わった効果として、①自分自身の思考や感情(feelings)、そして情動(emotions)や、②目の前の相手の思考や感情、情動と自分の関係について、脳科学や神経科学的な理論の裏付けが厚くなっていること。その結果、自分自身のあり方という内側のシステムと、直接関わる人たちとのソーシャルなシステム、そして、より大きな世界のシステムとが、相互につながりあった、実はひとつのシステムだということが体感的に理解しやすくなっている。また、生徒一人一人やその人間関係を題材にできる分、教育という場面に導入しやすいのかも。

○ ピーターとメッテ、そのパートナーたちが、行おうとしているのは、これらの文脈やツールを共有・実践するコミュニティを育み、「グローバルな意識を持ち平和を目指す市民(Globally minded peaceful citizens)」を育てること。アタマだけで捉えるシステム思考ではなく、世界中のつながりを体感として意識しながら、平和を求めて考えて行動していける人を育てようとしている。そのために、私と他者、そして大きなシステムの知性と感性が必要だってこと。

○ コンパッション(=自分以外の苦しみに寄り添えること)がキーワードになっているのは、今のぼくらの社会が直面する問題が、どんな個人の直接の経験をも超えたところで起きるからだと思う。気候危機にせよ、パンデミックにせよ、政治の混乱にせよ、世界中の悪いニュースを見ていると、ぼくらの感情は圧倒されて、共感性の強い人ほどそこから自分を切り離してしまいたくなるのは普通のことだ。

そこで、目の前の辛さに感情をハイジャックされることなく、苦難を経験している人たちに関心を持ち、思いを馳せ続けながら、自らの生きる世界に責任を持った個人として思考・行動してためのカギとしてコンパッションが取り上げられている(言葉の定義は流派によっていろいろだけど)。

○ 「人生に大切なことの中で、3日間セミナーでできるようになったことなんて1つでもありますか?」と、今回ピーターは問いかけた。この笑ってしまうようなことを、ぼくらはどこで誤解してしまうのか。「情報をインプットして、整理して理解して、実行する」という学びに対する誤解には害が大きい。もちろん正当な理由があって、時間とお金を投資して何を持ち帰るかは気にかかるものだ。しかし、本当に大切な学びは、長い時間をかけた実践(プラクティス)からしか起こらない。10年経ってもできないことばかりで楽しい。

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