「不快」と距離をとる
古傷と向き合う過程で、
そういえば、不快感を誰かにぶつけるってこと
あんまりないかも?
ということに気づきました。
八つ当たりとかしないんですよね。
派手に荒れるということもありません。
誰かに罵声を浴びさせたり、罵ったりもしません。
自分に対しても不必要に自分を責めたりしません。
心は荒れ狂っています。
メソメソ泣きますけど、荒れ狂っている様を出すことはほとんどありません。
それもやはり、幼少期の体験が影響しています。
父と祖母は仲が悪く、お互い聞こえるように嫌みを言っていました。
それが不快で不快で仕方なかったので、例え独り言であっても、文句を口にしないようになりました。
母は母で、卑屈で悲観的なことを言う人でした。
それも不快でした。
聞いてるだけで、気分が落ちます。
不快な言葉を口にすることも、耳にすることも不快で仕方ないのです。
私の中で、あの人たちのようにはならない。と決めたのでしょう。
いつからか、見ないように、聞かないように、感じないように、覚えておかないようになっていきました。
実家は居心地が悪かったので、高卒と共に家を出ました。
不快な場所からは離れる、近づかない。
6年前、自分と向き合うようになり、今までずっと抑え込んできた感情のふたが空いた時は、上の子のイヤイヤ期も重なり、溢れ出る感情を自分の中に留めておくことができず、その時は暴言吐きまくりでした。
1歳くらいの子どもにそんなこと言っても仕方ないだろ。ということ、全部子どもにぶつけていました。
言えば言っただけ自分の気分が不快になり、悪循環でしたが、火山の噴火のごとく噴き出した感情は収まりませんでした。
そこで私がとった行動は、距離をとること。
当時、キッチンに赤ちゃんが入らないよう、ゲージをしていましたから、子どもが「抱っこ~」と泣きわめいていても、気持ちが少し静まるまで、関わらないことにしていました。
育児放棄、虐待と言われればその通りかもしれません。
でも、そうしてでも距離をとらなければ、私は子どもを殺していたことでしょう。
それだけ強い感情が噴き出していましたから。
少しの間物理的に距離を取れば、気持ちも落ち着き、1歳児相手に私何してるんだ。という気持ちにもなりました。
私は、意図的に自分が不快と感じることからは距離をとるクセがついていたようです。
子どもの時は、その不快なところと向き合うなんてことはしようとも思っていませんから、見なかったこと、聞かなかったことにして、抑え込むという方法で心を保っていたようです。
大人になり、向き合うという術を知ってからは、泣きながらも何が不快なのか?を丁寧に向き合うようになり、不快に感じた原因を探り、消火し、手放します。文句を言ったり、愚痴を吐いたりすることはほとんどありません。
たまに主人には吐き出させてもらいますが、「今日こんなことがあったよ~」と事実を伝える程度で、そのことに愚痴愚痴言ったり、いつまでも不満を抱えるようなことはしません。
自分の声で発した文句が自分の耳に入るのも不快なのです。
ネガティブなことも言わないけど、褒めたり、ポジティブなことも言わない。
そりゃ、再設定もできないよね…と自分で納得ではあります。
ネガティブなことも口にしないけど、ポジティブなことも口にしないおかげで、「引き寄せました‼️」的なこともありません。
何で私にはそういう「奇跡的な嬉しい出来事」が起こらないんだろう?と思っていましたが、当たり前です。
願ってないんですから…
ポジティブなことすら思ってもないし、期待したりもしてないのですから…
ですが、大変な目にもあうこともほとんどありません。
むしろ、最近は仕事での突発的な大変なことにすら、当たらなくなりました。
老人ホームに勤めているので、利用者の急な体調不良や転倒、転落などの事故なども時々あります。
職場にいつも「疲れた」「忙しい」「大変」が口ぐせになっている先輩がいます。
年齢的にも私よりずっと上の方なので、確かに疲れるでしょう。
彼女は、よく「あー、忙しい」「もう、大変よ~」と言っていて、よく「忙しい事態」に遭遇します。なぜか「大変」になっていきます。
昨日私が受け持った時は何ともなかったのに。ということが、多々あります。
出勤していても、他のフロアでイレギュラーなことがあったり、休みだった日に色々あって、後から知るということが、何度もあります。
それはそれで、ある意味ラッキーかもしれません。
大変なことが起きたらイヤだな。とも思ってませんから、急変などで忙しくなることもないのです。
胸のつっかえも取れた今、望みを明確にして、もう少しポジティブに引き寄せ実践してみてもいいかもしれない。なんて書きながら思いました。
ちょっとこっそり、やってみます。