コーヒーの話を書くなら、まず「香り」だよね? でも私は…
ページを開けてびっくり。バグったのかと思った。
コーヒー豆を手挽きするようになったことを書いた記事が「note編集部お気に入りマガジン」などで取り上げていただいたようで、今、私のnote史上最大規模の方々に読んでもらえている。(ピックアップいただき感謝申し上げます)
読んでくださった方、スキしてくださった方、そしてフォローしてくださった方、本当にありがとうございます。
この記事を読み返してみて、そして今朝も同じようにコーヒー豆を手挽きしながら、私は自身のある“傾向”に気づいた。
それは…圧倒的に「視覚優位」だということ。
何かをするとき、体感するとき、今回は「コーヒー豆を手挽きする」ことだが、私は、レバーや豆の動きだったり、お湯を注いだときの挽いた豆のふくらみだったり、主に視覚情報をキャッチしている。
でもコーヒーといえば、誰もが豆を挽いたとき、そしてお湯を注いだときに立ち上がってくるあの「香り」を味わうだろう。
なのに、その「香り」について、私の記事は全く触れていない(書いているときには気づかなかった!)。
芳醇な香り?いや、これはコーヒーには言わないのか?…香りの表現が出てこない!嗅覚の表現が乏しいみたいだ(笑)
同じシーンでも、書く人の感性によって、キャッチするものが変わり、
そこから生まれる文章表現によって、浮かび上がる世界が変わる。
文章って、言葉って、すごく“自由”だと、改めて思った。
そう書いていたら、かつて言葉(文章)の自由さを体感したことを思い出した。
あれは演劇にハマって、毎週のように劇場に通っていた学生時代。野田秀樹さんの「キル」という舞台だ。
ステージで、主人公テムジン役の堤真一さんが言った。
「そうか、ああ、そうか、ただ見上げればよかったのだな。
モンゴルの空の青さが、ここにある。
空の青さは、世界のどこまでも続いているんだな。」
そう言いながらテムジンが見上げた先に、どこまでも続く青い空が出現するのを、私は「見た」のだ。
実際にはただステージの天井で、劇場内だ。でもその言葉で、確かに青い空が見えた気がした。
テレビの仕事でも痛感したことがある。
まだ駆け出しのディレクターの頃に、災害の現場を取材したときのこと。各テレビ局の記者や番組ディレクター、新聞記者、週刊誌記者が一堂に集まり、取材攻勢が始まっていた。
そこで感じたのが、新聞記者と、テレビディレクターの違い。
新聞記者は基本ペン取材で、被災した方に少し話を聞いただけで、言葉を補充して伝えることができるが、テレビディレクターは映像を撮らなくてはならない。
それはイコール、大変な状況にある被災者にずっとカメラを向けなくてはいけないということで、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
(テレビを通じて、被災地の状況や被災した方々の気持ちを伝えることの意義と、目の前にいる大変な状況の人を煩わせることの間でいつも葛藤する)
文章の“自由”さがうらやましかった体験だ。
noteでエッセイを書くようになって、私は「書くこと」も好きなんだと知った。
自由に表現したい人には向いているのかもしれない。