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時を超えて届いたメッセージ

日記は読み返さないものと思っているが、先日、息子の卒園アルバム作りの原稿に「初めて話した言葉は?」などの設問があって、もはや覚えていないから、完全に放置していた昔の日記を本棚の奥から取り出した。 


13年前から日記をつけていた。それは毎日ではなく、どうしようもなく書き殴りたいときに一気に何枚も書く感じのもので。だから日記というより、なんだろう、気持ちの整理メモ? うまい言葉が見つからないので、一応「日記」としておこう。 


日記の中の私は、笑っちゃうくらい必死にもがいて生きていた。甘い、足りない、もっと日々を充実させよう、もっともっともっと頑張れ、よくやった・でもきっとまだまだできる。終始そんな感じ。

いつだって自分は足りないと思っていて、泣きながら励ましながら前に進もうと、自分を戒める言葉や鼓舞する言葉が並ぶ。読んでいて、痛々しくて、苦しくなるほどだ。


あの頃の自分を優しく抱きしめて言いたい。「そんなに頑張ろうとしなくていいんだよ」「あなたはあなたでいるだけでいいんだよ」と。 


でもきっと、今だからそう思えるのだ。 

あのとき、足りないところを埋めようと必死にもがいていたことが、今の私を創っていることは紛れもない事実で。

根性みせてやってきたからこそ、仕事が評価され、今の職場環境に繋がっているし、自分のことばかりに必死すぎて引き起こした離婚の危機からの夫婦関係、親子関係の見直しがあったからこそ、今の家族がある。 


だからムダなことは何もない。なんだけど…抱きしめてあげたい(しつこい 笑) 



日記には心に響いた言葉もよく書き留めていた。目に止まったのは、写真家の蜷川実花さんのそれだ。

「自分で自分を追い込んでいかないと、日々の忙しさをこなすだけで精一杯になってしまう。今日は何も創っていない、何も考えてないけど大丈夫?って」
ソロモン流 蜷川実花より


すごいストイックな、さすが第一線で輝き続けるクリエイターの言葉なのだけど、かつての私はこの言葉を自分もそうでしょ?と言い聞かせるように、強い筆圧で書き込んでいた。


私は創りたかったのだ。自由に。自分の“世界”を。

でも目の前の仕事(OA)のことで精一杯で、目の前の人(チーフやプロデューサー)の評価がすべてで、「創る」という情熱をいつしか見失っていた。


数年に一度、いや1年に一度くらいの頻度かな。私は疲弊し、行き詰まることを繰り返していた。その理由が、今、やっと分かった。自由に創作したい心を、日々の忙しさの中で押さえ込んでしまっていたからだったんだ。


13年前の日記が、時を超えて届けてくれたメッセージ。


私たちはきっともっと自由に、好き勝手に創っていい。表現していい。それを人が評価するかどうかは二の次。まずは自分の情熱を出すこと。その熱は、燃やし続けていたら、いつか風に吹かれてさらに大きくなり、煙を起こし、雨を降らす。その波紋はどんどんどんどん広がっていく。


だから、肩の力を抜いて、日々の中から素敵だな、美しいな、気持ちいいなと感じるものを内側に貯めていこう。カメラに収めていこう。そうして内側にエネルギーが貯めながら、同時に出していこう。出して、入れて、出して、入れて、出して、入れて、そうしていつか私の“世界”が出来上がる。


それはいつになるか分からない。でもやりたいんでしょ? やろうよ。



それにしても日記も面白いな。4年ぶりにまた再開しようかな。 




Photo by Zoran Borojevic on Unsplash

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