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【詩小説】首なし龍
気嵐になりたかった魂たち。
山代の湯けむり彷徨う霜月の夜明け。
大衆演劇一座の幕が降りると舞台の天井からはらりとこぼれた紙吹雪が宴会座敷の色褪せた畳に落ちた。
あれは何色だったろう。
椿の生き様よ。
あまりにも生き急いだあの娘の名前も同じ椿だった。
日中の椿は厠の手前の日の当たらない奥座敷に飾られていた市松人形だった。
無邪気なこどもに乱暴に髪を掴まれ振り回されたり、鼻息を荒らげた中年男性におもむろに胸元を広げられ白肌を晒されなぶられたこともあった。
その男は大衆演劇一座の荷物持ちでいつも酒臭く椿の体は手垢や涎にまみれてひどく汚れていた。
日が沈むと椿は慌てて温泉の白濁の湯に浸かり体を隅々まで洗い流し清めていた。
夜も深まると宿の客に舞を披露しないといけないのだ。
満月の丑三つ時。
北風が潮の香りをつれて湯気の立ち込める露天風呂に流れてきた。
その夜も正気を失った酔っ払いの男たちの汗や脂の匂いを洗い流していた椿の熱い涙を冷まそうとしていた。
ちゃぷっと背後から湯に足を入れた音がした。
こんな時刻に入浴客とは珍しかった。ほとんどの客は酒で潰れいびきをかいて眠っている。
だが、露天風呂は常に開放されているので仕方がない。椿は気付かれぬよう気配から遠ざかっていった。湯の音からして男の客であろう。白濁の露天風呂は混浴であった。
いつもは息を潜めて客が去るのを待つ椿だがこの時ばかりはなぜかその気配の主が気になって仕方がなかった。
椿は岩場からゆっくり振り向いた。
立ち込める湯けむりが時折吹く北風にかき消されうっすらと影があばかれていった。
そこには齢18ほどのまだあどけなさを残した大きな瞳に似つかわしくない筋骨隆々な肉体の青年が湯を掬い顔を洗っていた。
首なし龍だ。
冬の手前の満月の夜に首なし龍が椿の体に巻き付いて縛り上げた。
リビドーの稲妻が走る。
針山地獄のような首なし龍の爪が椿の空洞の内臓を突き刺した。
生まれた理由は首なし龍に出逢えばわかると椿の顔に筆を入れた人形師が教えてくれた。
奥座敷に飾られた数十体もの市松人形たちは記憶にもないほど遠い昔から気付けば一体、また一体と居なくなっていた。
歴代の女将の誰かの気まぐれで捨てられたのかもしれない。
宿泊客がこっそり盗んでいったのかもしれない。
ただ、椿は信じていた。
いつか首なし龍と出逢いこの日の当たらない黴臭い世界から連れ出してくれることを。
今はもう奥の間には椿だけしか残っていなかった。
「いいお湯ですね」
青年が椿に話しかけてきた。
「えぇ、毎晩浸かっても飽きませんわ」
震える声を必死にごまかして椿はこたえた。
「旅芸人とは舞台でみるから有り難みがあるのですね」
青年が頭に乗せた手ぬぐいで額をあてながら呟いた。
「はぁ…」
椿はどっちともとれない返事をする。
「舞台を降りた旅芸人の賑やかなことといったら…少々胃もたれがします。私にはうるさすぎました」
「さようですか」
「やっと風呂に入れました。もうこんな時間ですよ」
青年は少し笑って言った。
「あなたはこの宿の方ですか?」
「えぇ、まぁ…」
「仲居さんですか?」
「この宿で舞を披露しております」
「舞ですか?それは素敵ですね」
「ご興味がお有りですか?」
「まだ一度も目にしたことがないのですが、とても興味深いです」
「お若いのに」
「あなたもお若いじゃありませんか」
「ふふ、おかしな方」
椿が俯いて肩を震わせ笑った。
青年はその椿の背中を大きな瞳で見つめていた。
「あの…」
「はい」
「私にあなたの舞をみせてくれませんか?」
青年の屈託ない好奇心に快感さえ覚えた椿は思わず体を青年に向けた。
「お名前を…お名前を伺ってもよろしいですか?」
椿は顔を上げると長いまつ毛を蝶が羽ばたくように瞬かせ青年を見つめた。
「申し遅れました。私は岩崎宗介と申します」
「宗介さまですね。私は椿……。山代椿」
「お美しいお名前だ」
「宗介さま。あなたのお部屋は…どこへお訪ねすればよろしいでしょうか」
「一階の鶴来の間に…」
「鶴来の間ですね。では、後ほど…必ず…」
そう告げると椿は先に立ち上がり宗介の背中をちらっと見やり風呂から上がって去っていった。
浴衣を着慣れていない宗介は胸元も大きくはだけて帯は斜めに不格好に締められていた。
胡座をかいたり正座をしながら落ち着かぬ様子で椿を待っていた。
「宗介さま。椿です。入ってもよろしいでしょうか」
襖の向こうから椿の声がした。
宗介はゆっくり襖を開け椿を部屋に入れた。
椿はどうぞと言わんばかりに宗介に楽に座るよう促した。
掛け軸を背に金の刺繍を施した赤い着物を纏った椿がしなやかに立っていた。
小さな椿の口から歌が聴こえる。
その歌に合わせて椿は艷やかで柔らかな所作で舞いはじめた。
宗介は食い入るように前のめりに舞に見入った。
人として 産まれいでず 赤椿
人として 死んで逝きたい 白椿
きむすめ きむすめ おにむすめ
生きて 燃えたい 散り椿
首をなくした龍もとめ
抱いて 堕ちたい ひとのかた
椿は歌い終わると宗介の膝にまたがった。
宗介は温泉に滲み出た椿の花のほのかな甘い香りを毛穴から漂わせ椿の肌を強く抱きしめた。
湯が沁み込むように吐息をもらした椿はぽとりと花を落として気嵐になった。
宗介は椿の名前を声を震わせ何度も呼びながら気嵐の白い靄を掻き集めた。
宗介の指をすり抜け気嵐となった椿の魂は霜月の満月にゆらゆらと誘われ吸い込まれていった。
日が昇った。
宗介は鶴来の間で冷たくなって横たわっていた。
どこからともなく外の日が厠の手前の奥座敷に入り込んだ。
そこにはもう一体の市松人形も居なくなっていた。