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【コラムエッセイ】後世に残すモチベーション

後世に残すというおおまかな概念が人間の遺伝子レベルの問題として組み込まれていることは一度や二度なんてもんじゃないくらい聴き知ってはいる。

人間に限ったことじゃない全ての地球生命体の本能なのだろう。

それは子孫であり、医学の進歩に貢献する杉田玄白の解体新書であり、牧野富太郎の植物図鑑であり、宮崎駿のナウシカであり、バッハやモーツァルトの音楽であり、ゴッホやピカソの絵画であり、黒澤明やアルフレッド・ヒッチコックの映画であり、夏目漱石やシェークスピアの文学であったりする。

それらは形あるものであり、どんなに果てしない時を経てもこの目や耳で観たり聴いたり、楽譜で確かめることもできる。

例えば私は詩をどう残すかというと本に残すことができる。

阿久悠氏のように生涯で云千曲も歌詞を残すことは無理だと現実に突きつけられカッと目を見開き心臓がドクンと衝撃を受けても阿久悠氏と比べることが酷なことであると理解し、それでも一曲…いや、数十曲は後世に歌い継がれる歌詞を残したいと思いなおす。生きる希望を絶やさぬ為に解釈を操る。

私にも後世に残したい本能がある。

それはきっと多かれ少なかれ全ての人間にもあるはずである。

私は自分に持ち合わせていない才能に心奪われる。
特に俳優さんや歌い手さんや芸人さんなどの表舞台で表現する人を尊敬する性分のようである。

そこで、ふと、映画やドラマなどの映像として後世に形として残る俳優さんや音源として残る歌い手さんとは別に、芸人さんはどんなモチベーションで人を笑わせているのだろうと疑問に思った。

人を笑わせること自体に生きる意味を見出していることはもちろんあるとは思う。
あと、モテたいとか金持ちになりたいとか…そういう理由もよく聞く話でもある。

が、舞台で例えば漫才を披露しても形としては残らない。
それがVHS.DVDとして残る時代ではあるが、その前提のなかった昔の芸人さんはどうだったのだろう。
それは今の芸人さんにも脈々と継がれているなにかではあると思う。
そのなにかとはどんなものなのだろう。

俳優さんにも舞台のみでしか表現したくない人もいる。
映像に興味を示さない俳優さんのひとりが言っていたことに「舞台はやり直しのきかない一度っきりのなまものみたいなもの。その空間でその時だけの空気を観に来てくれたお客さんと共有したい。同じ空気を吸いたい」という旨のことを。

だから一度だって同じ舞台など成立しない。存在しないからこそ面白い。それが続けられる理由なのだと。

資料映像としても残さないとしたら、本当に言葉どおりその場限りの共有で完結してしまう。
形として残らない。
その俳優が演じた姿は残らない。

それは、後世に形として残すという概念が変化していることにはならないだろうか。

芸人さんも舞台のみで完結することを望んで続けているのだろうか。

形に残らないことがとても怖い反面、残る(残す)怖さもある。その感覚はわかっているつもりだ。

それでも、私なんかは本という形や、歌という継がれるものに残そうと尽力し執着して生きている。
このハムスターの進みもしない回転車の虚しさは何だろう。

「形として残らなくてもその場にいてくれた人の記憶に残ってくれるだけで私は幸せです」

そんな身も蓋もないことを言われるのがとても怖い。
あまりにも己が情けなくいやしく思える。
いつか形あるものはなくなる。
だからこそ潔いそれが完璧すぎる理由に聞こえてならない。

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