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パミール旅行記6 〜ドゥシャンベ2日目〜

タジキスタン・ドゥシャンベの初日は無事に終わった。パミール・パーミットは翌日午後の受取予定となったが、ドゥシャンベで1日時間ができたことで、市内の観光や、ドゥシャンベ在住の何人かの知人と会うこともできそうである。

(前回の話および記事一覧)

OVIRへ

2022年8月11日。この日は午前中はAさん宅でゆっくりとし、午後からパミール・パーミットを受け取りに行くことにした。当初予定ではパミールにはAさんと一緒に行くことにしていたが、Aさんは療養に専念し、明日は私一人でパミールに向かうことになった。パミールへ向かう乗り合いタクシーの案内を、Aさんの知人がしてくれるとのことだった。

OVIRに行く(1回目)

AさんにOVIRに行くマルシュルートカの番号を教えてもらい、早めに着いておいたほうが良いだろうとのことで、午後2時頃のOVIR到着を目指して1時過ぎにAさん宅を出た。

大通りに出てしばらく待っていると、Aさんに教えてもらった25番のマルシュルートカが来た。念のため運転手さんに「オーヴィール?」と確認すると、「そうだ、乗れ」とのことなので、乗り込んだ。

マルシュルートカは、ドゥシャンベの街をいろいろくねくねと曲がりつつ走った。地図アプリで現在位置を確認していると、大雑把に言って東西および南北に伸びているドゥシャンベの道に対して、あみだくじのようなルートを通っているようである。

OVIRには2時過ぎに到着した。「昨日パミール・パーミットを申請した者ですが…」と言おうとしたが、「申請」を何と言うのかがタジク語でもロシア語でも出てこなかった。しかし、最終的にはタジク語だかロシア語だか英語だかでどうにかこちらの意図を伝えることができ、昨日の課長あるいは部長風のお兄さんに英語で「受け取りは3時だ」と言われ、3時まで時間を潰すことになった。

本屋へ行く

3時まで小一時間ほど時間があるので、その間に本屋に行くことにした。2時にパーミットが受け取れない場合も想定して、近くに本屋でも無いかと事前に調べていたのだが、徒歩往復+店内をざっと見ればちょうど良い時間になりそうな本屋があったので、そこに行くことにした。

気温は高いが湿度はそれほどでもないのかそんなに蒸さないドゥシャンベの街を20分ほど歩き、目的の本屋に到着した。

目的の場所には本屋が二軒あり、間にひとつ別の店を挟んで並んでいた。本屋ではタジキスタンの地図を買おうと思っていたが、1軒目の店内を見てみたところ、ありそうな雰囲気では無かったので2軒目に行った。

2軒目は、店内をざっと見てみると地図もありそうな雰囲気だった。店員のおじいさんに地図があるか聞こうと思ったが、タジク語で地図を何と言うのか自信が無い。イランのペルシア語では「ナグシェ(نقشه / naqshe)」だった気がするので、とりあえずはそれをタジク語風に発音した「ナクシャ(нақша)」で聞いてみることにした。

「メーバフシェード、ナクシャイ・トジキストーン・ドーレード?(すみません、タジキスタンのナクシャはありますか?)」

おじいさんのリアクション的に、どうも伝わったかのか伝わっていないのかよく分からない。念のためロシア語の「カールタ(карта)」も使って

「カールタイ・トジキストーン・ドーレード?(タジキスタンのカールタはありますか?)」

と聞いてみた。これで通じたのか、最初のでも伝わっていたのかは不明だが、おじいさんは「タジク語を話せるのか、地図ならあるぞ」と言いつつ、巻いてあるポスター風の大きなタジキスタンの地図を持ってきて広げてくれた。

私は旅行中にも持ち歩けるような地図が欲しかったので、もっと小さい、本のようになっているものは無いかと聞くと、折りたたまれている紙の地図を持ってきて広げてくれた。

当初予定では冊子状のものが欲しかったが、これはこれで悪くなさそうだった。

「イーン・ロー・メーホーハム!(これが欲しいです!)」

と伝えると、おじいさんは広げた地図を折りたたみ始めたが、うまく折りたためずにブカブカになってしまっていた。おじいさんが悩んでいるところ、他の店員さんもやって来て、新しい地図を用意してくれた。

私は無事地図を購入することができ、「ラフマティ・カローン(ありがとうございます)」とお礼を言ってピシッと畳まれた地図とともに店を後にした。ブカブカになった地図がその後どうなったかは不明である。

購入したタジキスタンの地図。日本帰国後(本稿執筆中に)撮影。改めて見てみると、「地図」を意味する単語は「ハリタ(Харита / Kharita)」となっている(ベスト社「タジク語入門」の巻末語彙集によると、「ナクシャ(Нақша / Naqsha)」も地図を意味している模様)。なお、微妙に年季が入っているように見えるのは、主に後述のファンタ事件によるもの。

再びOVIRへ

本屋を後にした私は、再びOVIRへと向かった。

本屋からOVIRへの帰り道にて、ドゥシャンベ市内初の写真。本屋の写真も撮っていたと思っていたがデータを確認してみると撮っていなかった。。。

OVIRにはちょうど良い時間に着くのではないかと思っていたが、予想より早く近くまで着いてしまったので、近くにあった公園を歩いてみることにした。

OVIR近くの公園。公園名は「ミール・アリーシェール・ナヴァーイー文化レクリエーション公園(Боғи фарҳангу фароғати ба номи Мир Алишери Навоӣ / Boghi farhangu faroghati ba nomi Mir Alisheri Navoi)」となっている。Wikipediaによると、ナワーイー(1441-1501)は現アフガニスタンのヘラートで活躍した人物で、チャガタイ語文学の確立者とのこと。
公園内の様子

閑散とした公園内を突き当りまで歩くと、二人の像があった。名前を見てみると、像のうちのひとつはジャーミー(1414-1492)だった。ジャーミーは現アフガニスタンのヘラートで活躍した人物で、ペルシア語古典詩時代の最後を飾る大詩人ある。ペルシア語古典詩の最初を飾るルーダキーとは対になる存在と言えるだろう。

向かって右側がペルシア古典詩の最後を飾るジャーミー(1414-1492)。左側はこの公園の名称にもなっているナワーイー(1441-1501)。いずれも現アフガニスタンのヘラートの人で、互いに交流もあったとのこと。
公園内にはこのような像もあった

OVIRに戻ると、例の常に英語を話す課長または部長風お兄さんには既に顔を覚えられていた。やや時間待ちをして、お兄さんから無事パーミットを受け取った。

パミール・パーミット(パミール到着後のホログ市内で撮影)。タジク語では「ルフサトノーマ(Рухсатнома / Rukhsatnoma)」となっている。申請する時は私は「イジョーザノーマ(Иҷозанома / Ijozanoma)」と言っていたが、どちらも「許可証」の意味であり通じていた模様。

ルーダキー公園

パミール・パーミットの取得後は、Aさんとは別のパミールの知人Mさんと会う予定になっていた。待ち合わせ場所はルーダキー公園。Mさんにパーミット取得完了を伝え、徒歩でルーダキー公園へと向かった。

OVIRからルーダキー公園へ

ルーダキー公園までは、当初通ろうと思っていた道が工事中で、また思ったよりも距離がある気がした。

Mさんをあまり待たせてはいけないと思い、バス(マルシュルートカ)に乗ろうとバス停でマルシュルートカに声をかけるが、来たマルシュルートカはどれもルーダキー公園には行かないと言う。

このままではいつまでもバス停で待つことになってしまいかねない。思い切って通りがかりのおばあさんに「ルーダキー公園に行くバスはどこですか?」と尋ねたところ、「そんなところ、歩いて行きなさい!」と元気な笑顔で言われたので、観念して徒歩で早足気味にルーダキー公園へと向かった。

OVIRからルーダキー公園に向かう道中にて(ルーダキー公園まであと数分)

イスマーイール・サーマーニー像

やがて、ルーダキー公園と思しき公園に到着した。まず目に入ってきたのは、イスマーイール・サーマーニー(イスモイル・ソモニ)像である。

ルーダキー公園に到着。手前にイスマーイール・サーマーニー像があるが逆光気味で、この写真だとよくわからない。

イスマーイール・サーマーニー(849頃〜907)、タジク語表記でイスモイリ・ソモニ(Исмоили Сомонӣ / Ismoili Somoni)は、かつて中央アジアからイラン東部にかけてを支配したサーマーン朝(873〜999)の英主で、同王朝の実質的な創始者ともされる王である。サーマーン朝はペルシア文化の復興に力を注ぎ、7世紀のアラブによる征服以降200年間にわたって沈黙状態にあったペルシア語文化はこの王朝下で復活を遂げることになる。実際に後世に残すようなペルシア語による文芸活動が生まれたのはイスマーイール・サーマーニーよりも後の時代だが、その礎を築いたのは彼だと言えるだろう。

そのようなわけで、イスマーイール・サーマーニーはペルシア語文化における重要人物であり、ペルシア語話者圏の一角をなすタジキスタンでは建国の父扱いされており、通貨名のソモニも彼の名(または王朝名)に由来している。もっとも、彼が主に活躍したのは現ウズベキスタン領のブハラやサマルカンドのはずであり(廟もブハラにある)、現タジキスタン領とはあまり縁は無かったかもしれないが。いずれにせよ、彼の像を見ることはドゥシャンベ滞在中に実現したかったことのひとつであり、時間帯的に写真のほうは逆光になってしまったものの、目的のひとつを達成することができた。

公園側から見たイスマーイール・サーマーニー像

ルーダキー像

ルーダキー公園は大きな公園であり、Mさんと待ち合わせ予定の「入り口」がどこかで多少迷ってしまったが、イスマーイール・サーマーニー像のある角より一つ北側にある、メインゲート風の入り口のところで無事Mさんに会うことができた。

Mさんは鮮やかな緑地に赤色の線の入った肩紐の肩掛けバッグをしていた。緑地に赤の線は、イスマーイール派(ニザール派)の旗の色でもある。「これ、イスマーイール派の色だよね?」とMさんに聞いてみたいと思ったが、コミュニケーション力不足、とりわけ質問が苦手な私は、結局聞けないままになってしまった。

我々はまずはルーダキー公園内を散策することにした。最初の目的地は、公園名の由来にもなっているルーダキー像である。

ルーダキー像

ルーダキー像は、公園の入り口からそう遠くないところにあった。

ルーダキー(848頃〜940頃)は「ペルシア語詩の始祖」とされている詩人で、活躍したのはイスマーイール・サーマーニーより二代後のナスル二世の時代である。後の偉大な古典詩時代を通して現代に至るペルシア語詩を確立した詩人としてペルシア語圏で尊敬を集めているとともに、私がパミールに興味を持ったきっかけであるイスマーイール派とも因縁があった。(なお、ややこしいが「イスマーイール・サーマーニー」と「イスマーイール派」は特に関係は無い。旧約聖書におけるイシュマエルでアラブ人の祖とされるイスマーイールは、イスラム圏で宗派を問わずによく使われる人名のひとつであり、イスマーイール派という宗派名は同派がシーア派の主流派(後の十二イマーム派)から分裂するきっかけになったイスマーイール・イブン・ジャアファル(719頃〜762頃)に由来する。)

ルーダキーが活躍していた頃、イスラム世界の中央に位置するエジプトではイスマーイール派がファーティマ朝という強大な王朝を築いていた。ファーティマ朝はイスマーイール派の宣教師を各地に送り込み、その影響力はイスラム世界の東端に位置するサーマーン朝にも及んでいた。

サーマーン朝はスンニ派王朝だったが、時の王でルーダキーのパトロンでもあったナスル二世はイスマーイール派に対して好意的だった。ナスル二世はイスマーイール派の活動を保護し、一説には彼自身もイスマーイール派に改宗していたという。しかし、このようなナスル二世のイスマーイール派寄りの態度は、同派を異端視する多数派スンニ派勢力の怒りを買った。スンニ派勢力の圧力によってナスル二世は最終的には王座を追われ、彼の保護下にあったルーダキーも連座して目を潰された上で追放されてしまう(後に、ルーダキーは元々盲目の詩人であったという俗説が生まれた)。

なお、以上のような経緯からルーダキーをイスマーイール派詩人とする説も一部であるというが、多少は影響を受けているかもしれないがイスマーイール派詩人と呼べるほどのものではない、というのが一般的な評価のようである。また、これらのイスマーイール派を巡る事件の舞台は現ウズベキスタンのブハラの王宮のはずであり、現タジキスタン領内に影響があったかどうかは私の知るところではない(現在のパミールのイスマーイール派は、ルーダキーの時代より一世紀ほど後に活躍したナーセル・ホスロー(1004〜1070以降)に由来する)。

いずれにせよ、ペルシア語詩とイスマーイール派の両方に興味がある私としては、ルーダキー像は外せないスポットだった。また、タジキスタンで歴史上の偉人とされている人物の多くは、ペルシア語圏共通の偉人であって地理的には必ずしもタジキスタンに縁があるわけではないのだが、ルーダキーに関しては現タジキスタン領内の出身とされており、その意味でもルーダキー像を見ることはタジキスタンに来た目的のひとつと言えるものだった。

ルーダキー像では、Mさんがルーダキーと私のツーショット写真や、Mさんも含めたスリーショット写真を撮ってくれた。ルーダキーの詩がキリル文字なりアラビア文字なりでどこかに書かれていないかと、ルーダキー像の台座や、後ろにあるアーチ状のモニュメントを見てみたが、ざっと見てみた限りでは見当たらなかった。

ルーダキー像とツーショット(Mさん撮影)

ルーダキー像の後は、タジキスタンの国章のシンボル塔や、公園の脇にある滝を見て廻った。滝は、公園の一端から流れ落ちる形になっており(公園のほうが滝の上側にある)、眼下には広めの平野のようなものが見えた。方角的にはドゥシャンベの中心部である。平野の少し離れたところにスタジアムのようなものがあり、Mさんによるとナウルーズ(ペルシア暦新年、イランのペルシア語では「ノウルーズ」)の祝祭などもそこで開催されているという。タジキスタンのナウルーズ祭の動画はYouTubeで見たことがあり、雰囲気的にどこか郊外のスタジアムのようなところだと思っていたが、どうやらドゥシャンベ中心部だった可能性がありそうである。

ルーダキー公園の脇から流れ落ちる滝
ルーダキー公園の脇から望むスタジアム的なもの

滝の下まで階段をいったん降りた後は、再び公園に戻った。気温が高く喉が乾いていたので露店のひとつでファンタを購入。その後、Mさんに会う前に見たイスマーイール・サーマーニー像のところに行き、Mさんに像とのツーショット写真を撮ってもらった。Mさんのスマホのカメラは、安さ最優先の私のスマホよりもずっと優秀で、逆光の悪条件でも良さげな写真が撮れていた。

イスマーイール・サーマーニー像とのツーショット(Mさん撮影)

イスマーイール・サーマーニー像の後は、ルーダキー公園を離れて近くのカフェに行くことにした。

カフェにて

到着したカフェは、Mさんが昔よく通っていたカフェとのことだった。Mさんも来るのは久々のようで、昔はもっと良い雰囲気だったのが、今は若干微妙な感じになっているらしい。それと関係あるのかどうか、私が最初に座ろうと思った椅子は壊れていて近くの席のお客さんから椅子をひとつ譲ってもらうことになった。そんなハプニングもあったが、カフェの食事は良かった。

ルーダキー公園近くのカフェにて

ひととおり食事を終え、席から立つと、ズボンの膝のところが濡れていることに気がついた。その時は何が原因か全くわからなかったが、どうやらルーダキー公園で買ったファンタを蓋をゆるく閉めたままリュックの中に入れてしまったようで、ファンタがリュックの中で漏れていたことに後で気付いた(カフェではリュックを膝に乗せていた)。なんだかよくわからないが、今のドゥシャンベの気温ならすぐ乾くだろう、ということでMさんとカフェを後にした。

私は、夕方から別のパミールの知人のFさんに会う予定もあり、ここでMさんとお別れになった。Fさんとの約束の時間まではまだ少々あり、Mさんは近くを散策するのに良い場所として「クルシ・カビル公園」を教えてくれた。Mさんにクルシ・カビルを知っているかと聞かれ、何度か聞き直してアケメネス朝のキュロス大王(BC600頃〜BC529)のことだと気付いた。キュロス大王関係の何かがあるのかどうかは不明だが、何となく名前だけで見てみたい気分になる。

私はMさんにお礼を言い、地図アプリも頼りにクルシ・カビル公園へと向かった。

キュロス大王公園

クルシ・カビル公園ことキュロス大王公園は、地図の上では大通りから少し入ったところにあり、入り道を見落とさないように気をつけねば、と思ったが、特に迷うことなく到着することができた。まず目についたのが大きな劇場で、それを囲むように公園は広がっているようだった。

サドリッディーン・アイニー歌劇場。キュロス大王公園はこのオペラハウスを取り囲むような敷地になっている。劇場名になっているアイニー(1878〜1954)は、現代タジク文学の創始者とされている詩人である。
クルシ・カビル公園(Боғи Куруши Кабир / Boghi Kurushi Kabir)の入り口。

クルシ・カビル公園と言うくらいだから、キュロス大王に関連する何があるのかな、でも特に何も無いかもな、と思いつつ公園内を散策した。例によってキュロス大王関係のものは特に無さそうだったが、良い感じの雰囲気の公園だった。

クルシ・カビル公園内にて

公園内を歩いていると、有料のトイレ(1.5ソモニ=約20円)もあったので行っておいた。その後、ふとパミール・パーミットの取得前に購入した地図を見てみようとベンチに座ってリュックサックの中を開けると、ルーダキー公園で買ったファンタの蓋がゆるんで中身がこぼれていた。ビザ等の重要書類はクリアファイルに入れていて無事だったが、地図は一部ダメージを受けており、モバイルバッテリーもファンタ浸しになっていた。

私はリュックの中のものを乾かずべく、ベンチの上に地図やモバイルバッテリー等を広げた。ドゥシャンベは異常気象レベルで暑いらしく、一方で湿度は低いようなので(体感温度は日本より低く感じた)、すぐに乾くのではないかと若干期待もしたが、さすがに日もだいぶん傾いている中でほんの数分で乾くようなものではなかった。地図アプリを見てみると、近くにHafizi Sherozi公園というものがあり、私の好きなハーフェズの名を冠しているだけに行くだけでも行ってみたい気もしたが、時間の都合で断念した。

クルシ・カビル公園の出口付近にて(別に入口と出口の違いがあるわけではないが、自分の通ったルート的には出口ということで)
碑文があり、公園名の由来とか書いてあるのかなと思ってざっと見てみたが、特にそういうわけでは無さそうだった。本稿執筆中に改めてベスト社「タジク語入門」の巻末語彙集とペルシア語の辞書を見つつ読んでみると、「国民の平和と統一の礎の導きとともに、国家指導者、尊敬すべきタジキスタン共和国大統領エモマリ・ラフモンはクルシ・カビル公園を建設し、2019年6月7日供用を行った」といういかにも旧ソ連圏風の文章だった。

ピザ屋にて

知人のFさんとは、午後7時にルーダキー公園近くのピザ屋で会う予定にしていた。数分ほど遅れてしまったが、無事Fさんに会うことができ、ピザ屋に入った。

ピザ屋の4人

ピザ屋では、Fさんと私の他に、同じく知人のKさん、Hさんも後ほど合流した。FさんとHさんがパミール出身のパミール人の学生である一方、Kさんはアフガニスタンのカーブル出身のハザラ人で、FさんやHさんと同じパミールの大学に在学する留学生である。ハザラ人の主要宗派はシーア派多数派の十二イマーム派だが、Kさんはイスマーイール派であり、おそらくそれが縁でパミールの大学に在籍しているのだろう。

Fさんによると、このピザ屋は店員さんにもパミール人が多いとのことで、Hさんは知り合いと思しき店員のお姉さんにロシア語で声を掛けていた(パミールではパミール語を使わない場合はロシア語の使用が一般的なようである)。

ピザ屋のピザはかなりおいしかった。何だかんだ言っても、イタリア料理には国境を超えたおいしさがあるのだな、と思った。

ピザ屋にて(Hさん撮影)

我々の言語状況

我々4人の言語状況は、パミールのホログ出身のFさんとHさんは母語がシュグニー語で、ロシア語や英語もペラペラであり、タジク語も「ドゥシャンベ人の話すタジク語は分からん」と言いつつも標準タジク語に関してはもちろんペラペラである。アフガニスタンのカーブル出身のKさんは母語がペルシア語で、シュグニー語とロシア語は学習中だが、英語はペラペラである。私は母語が日本語で、第2言語としてシュグニー語、ペルシア語(タジク語を含む)、ロシア語、英語等を多かれ少なかれ話すことができるが、英語以外の実力はかなり乏しく、英語もあまり得意ではない。

一方、文字に関してはKさんと私がアラビア文字表記のペルシア語を読めるのに対して、FさんとHさんはキリル文字表記のタジク語のみでアラビア文字は読めない。したがって、口頭のペルシア語ではKさんとFさん、Hさんの間で意思疎通が容易に行える一方で、アラビア文字表記のペルシア語でのやりとりはKさんと私の間で可能という、奇妙なねじれも存在していた。

いずれにせよ、現時点で我々4人が共通して最も意思疎通できる言語は英語であり、我々の会話もほとんど英語になった(そういえば、私を除いた3人で話をする時は何語になるのだろうか?)。


食事会では話が弾み(私は英語力等の不足で主に聞き手だったが)、タジキスタン側パミールとアフガニスタン側パミールの歴史的関係、タジキスタン国内でのアフガニスタン人の実情、今後の各々の人生計画など、いろいろとディープな話を聞くことができた。

気がつくと時刻は夜9時を回っていた。そろそろAさん宅に戻らなければならない。何となく、家族を家に残して飲み歩いている昭和のサラリーマン的な罪悪感を感じた。

食費はFさんが皆の分をおごってくれ、有り難くごちそうになった。私はスマホの電池がぎりぎりになっており、モバイルバッテリーは持っていたが肝心のUSBケーブルをAさん宅に置いてきてしまって充電できないという状況だったが、HさんがAさんに連絡をつけてくれ、タクシーの運転のお兄ちゃんにザラフシャーンへの帰り方を伝えてくれた。私はFさん、Kさん、Hさんにお礼を言い、タクシーに乗り込んだ。


スマホの電池はどうにかザラフションまで持ち、スマホ越しでのAさんの誘導でタクシーはアパートの前まで到着した。アパートではAさんが下まで迎えに来てくれた。

こうしてドゥシャンベでの二日目も無事終わった。明日はついにパミールへ向け出発である。

(続き)

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