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日本の”普通”、基準高すぎ問題
ねえ みんなが言う「普通」ってさ
なんだかんだで 実際はたぶん
真ん中じゃなく理想に近い
だけど普通じゃ まだ物足りないの
Dream Fighter/ Perfume
まさに、そう。
”普通”って、普通じゃない。
頑張って頑張って”普通”を手に入れて、維持して、それでもまだ満ち足りない。安心できない。
渡米後1ヵ月にやってきた、謎の解放感
これを激しく感じたのが、アメリカに住むようになって1ヵ月が経った頃だった。
なんだかわからないけど、とっても気持ちが楽になったのだ。
もちろん、新しい世界への興奮だったり、人間関係のわずらわしさから物理的な距離を撮れたことによる清々しさもあったと思う。
でも、疲労の泥沼のようだった職場は渡米の一年も前に辞めて気ままな無職生活を送っていたし、いろいろ悩みの種であった実家の家族とは離れて暮らしていた。妙にすっきりしたような感覚と共に、「なぜ今になって・・?」という疑問があった。
たまたま同じような気持ちを感じている日本人に語学学校で出会い、話した結果、なんとなくこれかなと思える答えに行き当たった。
「日本での生活、普段からめちゃくちゃ疲れてたんじゃない?」
「楽になった」をもう少し詳しく表現すると、「緊張感が薄らいだ」という感覚だった。
”職場で30代にもなったら、自分の仕事を全うし、他の人をサポートし、更に将来に向けて努力を欠かさないのが当たり前”
"まともな社会人だったら、TPOをわきまえつつ、やり過ぎず、それでいてトレンドも個性も兼ね備えたような服装をしているべき”
”ちゃんとした人は電車の中でも常に感じよく過ごし、人に迷惑をかけるなんてとんでもなく、たとえ迷惑をかけられても怒りをあらわにしない”
今こうやって文字にすると、
”いやー、そんなの、みんなが皆できてるわけじゃないよ?”とか
”それって、そうできたらいいな、であってそれが義務でもないよね”とか言えるけど、意識するまではそんなの無理無理。
こういうのって、自分の理想であり、行動規範であり、必ずしも悪いものじゃないんだけど・・・ 往々にして、自分のものじゃない物差しを無理やり自分に当てて、自分自身を苦しめてることってあると思う。
それは私の物差しじゃなかった
つまり、私が持っていた規範のいくつか、あるいは多くは、”空気を読んで”持っていたものだった。
自分が属する組織の中での”普通”だったり、家族の中での”常識”だったり、自分の身の回りの同年代や先輩が”当たり前”に持ってたりやっていることだったりを、自分の規範・基準にしてたんだった。
そして、冒頭に引用した「Dream Fighter」の歌詞にもあるように、その”普通”や”当たり前”はどれも”理想”に近くて、頑張らないと維持できなかったり、時には頑張っても手が届かなかったりした。
手が届いても維持に神経を張り詰めて、手が届かないと自分の駄目さが明らかになるようで辛くて。
何を着るか、何を話すか、社内で誰と何を話すのか、、、毎日の細部で少しずつ少しずつ心をすり減らしてた。
アメリカで、物差しが要らなくなった
アメリカでの毎日では、この物差しが、全然要らなかった。
まず、良くも悪くも「よそ者」で、その社会の物差しってものを知らない。物差しを当てはめて「ほら、ちゃんとできるでしょ?」と見せる相手もいない。
そして、到着後1ヵ月の間に見たアメリカ人たちは、周囲に合わせることなんてせず、それぞれが言いたいことを言い、着たい者を着、自分の物差しで生活しているように見えた。
※もちろん、アメリカの社会にも規範はあって、それにアメリカ人が悩んでいることもある。それを知ったのは、アメリカ人ともっと深く知り合うようになってからのこと。
「日本学」入門
楽になったのを喜ぶと同時に、なんで日本にそんな物差しがあるのか、がぜん気になってきた。
かくして私の「日本の”普通”、基準高すぎ問題」は、やがて日本学への興味として変わっていった。
ということで、これからは日本の社会について自分なりに本を読んだり考えたりしたことをまとめていきたいと思います。