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子どもの勉強と競争させることの関係

 個人的なことだがこの2,3年で職場環境が大きく変わった。いわゆる諸般の事情というヤツで、全教科の先生が揃う集団授業が前提の中学受験塾から、完全個別指導のみの個人塾になったのだ。2023年はその移行が完全に完了した年だった。

 自分ひとりで回す個別指導のみにシフトした時、実践して良かったな、正しかったな、と思うのは競争からすっかり降りてしまったことだった。これが、子どもにとって勉強する際、精神衛生上すこぶるよろしい。

 子どもというのは本質的に不器用なものだ。なにしろ、まだ大人でないのだから。その不器用さにどこまで付き合う懐深さが、大人側にあるか。その機微が、競争させることとの距離感に顕れるように思う。

 競争という仕掛けは、ナチュラルには不器用な子どもを扱いやすくし、御しやすくするための大人側の方便であるとしみじみ思う。
 まず、気持ちの面で圧力をかけやすい。動物をぶって芸を覚えさせるのと本質変わらないと自分は思う。大人側が手綱をとり、子どもを従わせる。たとえ、入り口のところで子ども本人から合意を取り付けても、そんなものはおためごかしだ。入り口の時点で子どもは自分がどんな経験をするか知らないが、大人は知っているのだから。
 また、教育方法自体にも問題がある。競争させるとは、ひとつの尺度による序列化に子どもを投げ込むことだ。そのひとつの基準を用意するために、カリキュラムを形式的に細分化された内容にして、その到達度を数値化する。これは、外部(例えば親御さん)に対して「ここまでやれました/やれてません」と見せやすい。しかし問題は、その形式的なカリキュラムを処理できたことと、その子どもの学習がどれだけ深まったかということとは、全くイコールではなく、酷い場合には、無関係どころか反比例にさえなるということだ(なんにもわかってない/頭に残ってないまま進められてしまうので、時間をかければかけるほど、わかるとはどういう営為か見えない状態が標準化してしまい、〈わからないということ〉を学習してしまう)。

 競争ヌキの完全マンツーマンで子どもたちを教えて、つくづく感じたのは、子どもにペースを合わせた時のほかでは得難い気持ち良さである。子ども自身の生理に従って時間をかけて試行錯誤するのに付き合っているとあっという間に1時間など経ってしまい、子どもも私も、なんだかほっこりしてさよならを言う。

 今年の収穫なのだが、東畑開人の講座を受講した時、「ほんとうの自分とは、温泉に入ってボ〜ッとしている時の状態」と聞いた。
 だから大人になったら、本当の自分は社会に出ている間は当然隠されているべきものだし、家庭でも常にその状態はマズイだろう(大人なんだから)。
 子どもでいえば、十分ケアされニーズが満たされている状態がそれにあたる。そうでない時、子どもは周囲の大人に気を遣いはじめる。自分のニーズを満たしてもらえるようペコペコし、ビクビクしながら過ごすようになる。

 競争という手綱を放棄して、なおかつ単に快適なだけでなく学習が実践されるためには、子どもの生理的なニーズを満たす形で勉強を差し出す必要がある。具体的には、子どもの未分化な作業のどこが、勉強のどの部分に該当しているか、今当人の感じていることは、あるいはしでかした失敗は、勉強でいえば何の萌芽にあたるのか。何かの欲求があった時、それはガバガバに許していい問題のあらわれなのか、それとも断固拒絶して「それはいけないのだ」と伝えるべき局面なのか。

 子どもの「ほんとうの自分」をベースキャンプにして、うろうろと試行錯誤をさせる。はっきり言って効率とは完全に無縁の世界だ。しかし、古来「いそがばまわれ」と言うではないか。

 今日は大晦日。来年も、子どもらの成長に伴走しつつ、自分の勉強もぼちぼち試行錯誤していけたらな…と思った。

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