世界がぐるんと回った|自分の話は誰にも「伝わらない」と思っていたけれど…

わたしがマインドフルネスを学び実践し始めたきっかけ
それは、ひとことで言ったら、生き辛かったから

転職した会社で与えられたリーダー職を全うすることができず
「仕事ができない人間は生きている価値がない」と思っていた自分は
もともと低い自己評価が更に下がり続けた

楽になりたくて
藁にもすがる思いでマインドフルネスの講座を受け始めた

もともと自己肯定感は低い自覚はあったが
そのリーダー職”失敗”の体験から強く植え付けられたセルフイメージは
「わたしの発することばは誰にも伝わらない」
「わたしの発信することは誰も幸せにしない」
というものだった

今は乗り越えた体験・経験と、その過程で学んだ知識を
(理由や事象は違えど)今まさに生き辛さを感じている人に
お届けできたら、と思って活動している

そこでいつも隣にあってストッパーになる思考が
その自己否定的セルフイメージ、そこから生じる恐怖

数日前のこと
ある知り合いと話す機会があった
週に一度、二拠点生活の週末の家に行くと会える彼女

「年末の風邪はもうよくなった?」と呼び止められて
そこからふたりで少し立ち話のまま雑談をした

そこで驚いたのは、彼女が座禅会に行ってきたという話だった
それは、わたしが毎週週末に早朝座禅会に行っているのと同じお寺
ここに住み始めた1年と少し前、瞑想には興味があると聞いたので
一緒に座禅に行こうと誘ってみたことがあったけれど
当時は
「早朝であること」「集団作業が好きではない」
などの理由を伝えてくれて、
一緒に行くことも、再度誘うこともなくなっていた

この日の立ち話で驚いたのは
あんなに興味がなさそうだった座禅に彼女が行ってきた
という事実以上に、
「●●さん(=わたしのこと)がずっと座禅に行っているのを知っていて
穏やかな表情になっていくのを見ていたら、興味が湧いて、
『何がいいんだろう』って知りたくて、行ってみようと思った」
という言葉だった

自分のことばを聞いてくれる人が、まさか、ここにいたなんて

伝えようとしていない相手、ましてやそんなに近い関係性ではない相手に
自分の大好きなものへの想い?情熱?のようなものが
少なからず影響を与え、彼女に行動をさせていたことに
ショックを受け、同時に感動を覚えた

昨年Ayakoさんのセッションを受けたときにきかれた質問を思い出す
「『伝える』『伝えたい』っていうことばが何度か聞こえてきたんですが、
●●さんにとって『伝える』ことにはどんな意味がありますか?」

ドキッとした。
「伝える」=「コントロール下に置くための手段」=防衛手段
これは瞑想実践を始めた初期(冒頭のリーダー職崩壊時)に
自分の考え方の奥のほうにあるものだと気づいたことだった
以来、できるだけ「伝える」という表現を使わないようにしていた
つもりだったが、セッションが始まって冒頭15分くらいの会話の中で
「伝える」「伝えたい」を繰り返し発していたことに
問いかけの形で気づかされた

ああ、気づいてもなお、まだ、
自分はこんなにも「伝えたいんだ」「伝えようとしているんだ」
「コントロール欲がこんなにも強いんだ」と認識させられた
できごとだった

更には
昨年半年かけて卒業したヨガ講師養成講座での最終実技試験
ガイドを終えた後に受けた指導講師の先生からのフィードバックは
(わたしにとっては)突き刺さるものだった。

「わたしたち(講師)は相手のために伝えることが大切。
 自分が伝えたいことを伝えようとしてちゃ、だめ。」

「どうしても変わらない部分」「どうしても拭えない汚点」のように
自分の「伝わらない」「伝えられない」というクオリティがあって

「自分は伝える媒体として不適切」という自己評価になって

それは、これから
大好きな 「心と暮らしのトトノエ」 を届けていこうとしたときに
自分にとって最大のストッパーとなっていて

どうやったらこれが拭えるのだろう、と考え続けてきた

「やり方」ではなく「在り方」なんだということは
頭ではわかっている
でも、じゃあ、
何をどうすればその「在り方」が自分の願う方向に変わるのか?

問い続けていた中で、ふと、彼女から言われたことばがそれだった

「ほかの人から勧められても(座禅に)行かなかったけれど、
 ●●さんの様子を見ていたら、きっと何か(座禅には)あるに
 違いないっておもって、行ってきました。」

彼女には、最初に”断られ”て以来一度も
座禅に一緒に行こうと誘ったことはなかったし、
座禅の話自体、したことはこの1年ほぼなかった

なのに、何かが、彼女に届いていた
「伝えて」はいない
けれど、「届いて」いたし、「受け留めてもらえて」いた

仕事の中で
「届くまで待っていよう」なんて悠長なことはできない

でもきっとこんな風に考えられていたら、
わたしと20代の若手たちの関係性は大きく違っていたかもしれない

「相手の状況に合わせて」
「全部が届くことはない」
「届くのは相手の受け皿に載る分だけ(10%もあればいい?)」
「届くのは相手の準備ができたとき」

そういえば、
お世話になった心理カウンセラーさんが
こんなことを言ってくれたことがあった

「●●さんは、ご転職前に先進的な外資グローバル企業さんに長くお勤めで、
 その考え方をもって今の会社さんに転職されたんですよね
 今の会社さんや、そこで働く若手社員さんたちには、
 そうした先進的な考え方を受け止めるだけの器や土壌がなかった
 タイミングが合わなかったんだって、そう思いませんか?
 わたしはそう思います」

これはとても私に都合のいい考え方だと思って
最初は受け入れられなかった
(それで片づけたら他責になるような気がして)
でもずっと胸の中には残っていて
何度もその記憶を訪れては振り返ることがあった

今は思う
自分には変えられないこと(会社や若手メンバーにとっての時節、タイミング)

自分で変えられること(とらえ方、態度、姿勢)
がある中で

マインドフルネス実践「前」のわたしは
前者ばかりをひたすらどうにかしようと(他責思考)
前者をどうにかコントロールできると思っていた

逆に

マインドフルネス実践開始「後」は
後者ばかりを見て(自責自責自責!と言い聞かせすぎて)
「自分が変われば全てが望む方向に変わる」と思っていた

ようやく腑に落ちた
両方、あったんだ

カウンセラーさんは
極端に片方から片方にシフトしていく様子をみて
「まんなか」に戻してくれるように
あのことばをくれたんだ

そう、今は思える

彼女に、座禅の話はしていない
自分が自分のために、好きで座禅を続けていただけのこと

その姿をみていた人に何かが届いて受け止められることもあれば
見ていたとしてもまったくそうならないこともある

概念的には「当たり前のことじゃないか」といわれそうだけれど
実体験をもってそれを感じることはそうそうない
少なくともわたしはそうで、そのことに苦しさをずっと感じてきた

彼女がこれから座禅とどんな関係性を築いていくのか
彼女のこれからを思う
温かい思いと共に

ふと思った

もしかしたらそう思うことは
自分がこれまで「伝えられなかった」と悔やんでいる
過去の様々な関係性たちの中に
少しだけ「光」のような「希望」のようなものを見出す助けに
なるのかもしれないと思う

「会社にも、若手にも、MBSR参加者さんにも、
 何も伝えられなかった」
と全否定して「0点」のラベルを貼るのではなく、
変えられる部分と変えられない部分があったのだと



「あの時のわたしは、種まきをしていたのかもしれない
 芽を出すかどうかはわからない
 けれど
 ひとつの可能性をそこに置いてきた」

信じて、待つ

マインドフルネスの実践を始めてから
自分の柱になっていることば

またひとつ、信じるものが増えたような気がする

ありがとう、Sさん、
座禅に行ったことを話してくださって


この投稿に出会って下さり、拙い文章を読んで下さり、
ありがとうございます

皆様にとって、素晴らしい一日となりますように
心からお祈りしています

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