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才能を持たない僕らは、どう足掻くのか。

「才能ってあるの?」
「才能は"素養×環境"だ」
「ワタシは才能ない?」
「私は君の素養を信じているし、いい環境でありたいと思っている」
「才能ない人はダメ?」
「まさか。私だって才能がなかったけれど……」
(ある師匠と弟子の日常)

こんばんは、LearnTernのAkiです。

今日もLearnTern更新しました。
メチャクチャ久しぶりの「情報デザイン」カテゴリの記事です。どうぞ。

さて、あなたは「才能」の存在を信じていますか? あなたには「才能」がありますか?

今日はそんな「才能」の話をします。

「才能」はあると思ってしまえ

才能というものは存在するのか。

僕はこのテーマについて結構考えたことがあります。いろいろ本を読んだり、話も聞いたりしました。名言も見ました。

――最終的に「才能」はあると思ってしまった方が良いという考えに至ります。

自分に才能があるかどうかではなく、自分には才能があまりなかったと思うために、「才能」の存在を認めてしまった方が良いと思ったのです。

大前提として、才能があろうとなかろうと「成功している人」「強い人」「勝っている人」はすべからく努力しています。中にはそれを努力だと思っていない人もいますが。

何にせよ彼彼女らは認知的負荷/身体的負荷を重ね続けることで認知能力/身体能力を向上させ、高みに登っていったのです。この事実は動かない。

では連中と自分の違いは「努力」なのか。その質量なのか。それによってヤツラに勝てるのか。

これは短絡的な思考で、失敗してしまう思考です。
闇雲に重ねた努力で彼らに届くことはありません。

だから「才能」の存在を信じてしまうのです。
あの人には才能があって、僕にはなかった。

だから、あの人がやっていないことをしなければならない

才能=素養×環境

僕は才能を「素養」×「環境」と定義しています。

素養とは、先天的・遺伝的なものです。サヴァン症候群の人々をはじめとして、間違いなくそれらの先天的素養というのは存在するでしょう。

環境とは、人生の初期をどのように生きてきたかです。人間の学習のボーナスステージはかなり前にあるので、その時期をどのように生きたかは重要になります。

環境の方は一見後天的ですが、子どもにそれをコントロールしろというのは酷でしょう。

だからまあ、本人からすれば才能はアンコントローラブルです。

けれど、才能とは素養×環境でしかありません。

才能を持たない者の足掻きとは

才能を持たなかった人は、才能を持つ人と同じだけの努力をしたって並べません。勝てません。

ではどう足掻くか。

――知ることです。

自分について、人間について、問題や課題について、知識や技能について、敵について。

それはメタ認知とも呼ばれるものです。

とにかく知って、工夫を重ねます。
より効率の良い学習法を会得し、より勝率の高い戦場を選びます。

これが才能を持たない者の足掻き方です。

僕はLearnTernで学習法を追い求めることで足掻こうと思っています。
よければ一緒に足掻きましょう。

ではまた。

ーーAKIーー
ー足掻く覚悟ー




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AKI /学習のアーティスト
学習のアーティストを目指してます。学習ノウハウの体系化・学習体験のコンテンツ化を通して、学習者のレベルアップを手伝います。現状、お金よりも応援がほしい。