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ちょうど土佐派の絵にあるように

和辻哲郎さんの「京の四季」

前回の私の投稿において、和辻哲郎さんの「京の四季」という随筆の最後の部分を引用しました。その引用の中に次のような文章がありました。


 中でも圧巻だと思ったのは、雪の景色であった。朝、戸をあけて見ると、ふわふわとした雪が一、二寸積もって、全山をおおうている。数多い松の樹は、ちょうど土佐派の絵にあるように、一々の枝の上に雪を載せ、雪の下から緑をのぞかせる。楓の葉のない枝には、細い小枝に至るまで、一寸ぐらいずつ雪が積もって、まるで雪の花が咲いているようである。その他、檜ひのきとか杉とか椎とか樫とか、一々雪の載せ方が違うし、また落葉樹も樹によって枝ぶりが違い、従って雪の花の咲かせ方も趣を異にしている。それを見て初めて私は、昔の画家が好んで雪を描いたゆえんを、なるほどと肯うなずくことができたのである。四季の風景のうちで、最も美しいのはこの雪景色であるかもしれない

特に、「数多い松の樹は、ちょうど土佐派の絵にあるように、一々の枝の上に雪を載せ、雪の下から緑をのぞかせる」の部分と、「それを見て初めて私は、昔の画家が好んで雪を描いたゆえんを、なるほどと肯うなずくことができたのである。四季の風景のうちで、最も美しいのはこの雪景色であるかもしれない」の部分が気になりました。

土佐派とは

日本画の流派における「土佐派」とは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、次のように記載されています。

流派解説
巨勢派の巨勢公望の門人春日基光を遠祖とし、数々の名手を世に送り出した流派。本画派は、純日本的ないわゆる大和絵の伝法を樹立し、14世紀南北朝時代の藤原行光を祖とし、室町時代のおよそ200年の長きにわたって朝廷の絵所を世襲し、伝統と権勢を誇った。特に土佐光信の時代には、宮廷や将軍家と密接な関係をもち、最盛期といえる。しかし、室町時代末期、光信直系の孫土佐光元が但馬攻めで戦死したことにより絵所領職を失ってしまう。織豊政権の頃より狩野派の躍進を受け土佐派の勢いは減速し桃山時代に門人土佐光吉が堺に拠点を移し一時は狩野派の下請け業者同然にまで衰退するも、江戸時代光吉の後継者土佐光則がその子土佐光起と共に京都に戻り、承応3年(1654年)光起が絵所領に復帰。流派は再興され、以後幕末までその地位を維持した。また、光吉、光則の門人である住吉如慶は江戸に行き住吉派をたて、子の住吉具慶の時に幕府の御用絵師となり、土佐派と同様に幕末まで続いた。光起は従来の土佐派の画風に加え唐絵や狩野派・琳派の技法を取り入れるなど新たな表現手法を積極的に用いていた。しかし光起・具慶以後は、新規の画題や表現に取り組むことはあまりなかった。
丁寧で繊細な作風が特徴である。土佐派は朝廷の御用絵師という立場上、浮世絵に対し否定的だったが、浮世絵師にとって土佐派が描く日本の伝統的なモチーフは、画題や様式の基盤であり、浮世絵を正統たらしめる大義、拠り所であった。岩佐又兵衛は土佐光信末流と記しており、菱川師宣も他の流派にならんで土佐派を学んだことに言及している。

雪を描いた土佐派の絵の一例


土佐光起(1617–1691)作といわれている「源氏物語絵巻、二十帖『朝顔』」には、次に示すように、雪が描かれております。

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「光源氏と紫の上が、雪遊びをする童女を眺めている」という様子が描かれているようです。

但し、この絵が、和辻哲郎さんの「京の四季」という随筆の中の「ちょうど土佐派の絵にあるように」の「土佐派の絵」にあてはまるかどうかはわかりません。

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