影と少しの光
映画『イニシェリン島の精霊』を配信でみた。景色が素晴らしくて旅に出たくなってしまった。写真はアイルランドではなく、イングランドの朝焼け。旅に出たい。
友人知人、学生のころお世話になった先生から、マクドナーらしい作品だと伺っていた。舞台『ウィー・トーマス』で貧血を起こしかけた私は覚悟を決めて視聴に挑む。閉塞感や暴力性、猛毒級のブラック・ユーモアと狂気に、漏れなく血の気が引いた。家でよかった。なんだかとても懐かしい。
二人の男たちのケンカが本土の紛争と並行して描かれていたのは、マクドナーへのインタビューからもやはり意識的に行ったことのようだった。なかば理不尽な形でケンカは始まり、その理由が次第に明らかになるものの、明らかになったらそれはそれでまた考え込んでしまう。何ともいえない気持ちを残して終わる。爽やかさからかけ離れた世界がやっぱり懐かしくて好きでした。
原題は"The Banshees of Inisherin"。邦題では「精霊」とされているバンシー(banshee)は、人の死を泣いて(叫んで)予告する不吉な妖精。本作では死の予告以上の意味を持たせるようなセリフもあって、紛争や死に対して島の人たちが抱く残酷な思いと重なってしまった。そういう思考に繋がる元凶は二人の男たちの諍いの理由でもあり、もっと言えばこの島の誰もが抱えているものでもあった。
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続いて、劇団昴によるコナー・マクファーソンの『ダブリン・キャロル』を観劇した。ディケンズの小説『クリスマス・キャロル』を想起させることはもちろん、「キャロル」は劇中で言及されるとある人物の名前でもある。梅雨に公演されるというのも面白かった。
孤独などにさいなまれた人が現実逃避のため、酒に依存して悪循環を繰り返す……というのがマクファーソン作品の長年のイメージだった。とにかくアルコールで逃避を繰り返す印象が強かった。中でも『ダブリン・キャロル』は、そんなアルコール依存が引き起こしたある出来事への「贖罪」をテーマにしていたはずで、そこに救いはあったっけ……というおぼろげな記憶とともにこわごわ劇場へ足を運ぶ。
今回舞台を拝見して、あんなに温かなまなざしが向けられていたことに驚いてしまった。私は当時人が悔いる姿にばかり目がいっていた。彼らが吐露する後悔には、厳しい追及よりも赦しが与えられていた。すっかり改心できなくてもかすかに見える光にちょっと手を伸ばすくらいは許されるはずで、こういうクリスマスキャロルがあってもきっといいのだ。
考えてみれば、初めてこの戯曲を読んだときから15年以上経つ。読んだといっても、先生や先輩のもとで辞書を引き引き何とかついていけたかどうかというくらいである。理解するに至らないことだらけだったはず。きっと解説もいただいていたはずなのに、愚かな私は失念していたのだ。いつも後悔だらけだ。また次に観たときには、別の何かを感じられたらいいと思う。