続・リーダーシップがわからない:私とわたしが重なるところ:
当事者性について以前の記事で書いていて、私にはまだわからないことがあった
自分が置かれている状況に対して、自分が「どんなところに当事者性を持つか」を「自分で決める」というのが大切だと書いたのだけど、では、どうやって自分で決めたらいいのだろうか
当事者性を見出すところをどうやってきめるのか
やりたいことできめるのか
なんとなく「この人をたすけたい」という想いだったり「見逃すことができない」という正義感や違和感のような気持ちだったり、また「たのしい、おもしろそう」という好奇心のようなものが、自分の当事者性を考えるときのよすがになるような気がしている
つまりそれは、価値観や気持ちと言い換えることができそうだ。「内発的動機」であるとか「衝動」と言うこともできるかもしれない
とても平易な言葉になるけど一旦これを「やりたいこと」と呼んでみることにする
やったほうがいいことできめる
自分のやりたいことや気持ちが動いた時に当事者性を発揮すればいいんだ、で終われば話しは単純なのだ
どうも現実はそう単純ではないように思ってしまう
当事者性というのは、当事者であろうとすることであると思う、と書くとトートロジーになってしまうのだけど、「あろうとする」と書いているように、自分ではない自分の外のものごとに対して、自分のことのように捉えるということだ
前に書いたように、まず自分の内面的な変化に気づく事が重要だが、その次には、自分が相対しているひとやことが何なのかということが大切になってくると思う
自分の中に湧き上がった気持ちが周囲にどういう影響を与えるのか、どういう環境に自分がいて、周りの人は何をしているのか、そういう「自分の外」に対しての洞察のようなものがないと当事者性は自分の世界の押しつけになる
自分の世界をいい意味で押しつけることでリーダーシップを発揮し、尊敬され成果を出す人もいるのが難しいところだけど、多くの場合そういう人の近くには、世の中と繋いでいる人がいるように思う
自分の当事者性が自分の世界で閉じると、現実とズレてしまい、自分も人も傷ついてしまう。自分が相対しているひとやことが何なのかにまなざしを向けて、その現状やもとめていることについて洞察することが重要だと考えている
これを「やったほうがいいこと」と呼ぼう
やったほうがいいことは、自分がやった方がいいかなと思っていることではなくて、周りがやってほしいと思っていることでもあるし、状況的にやったほうがいいと環境から暗に要請されることもありうる
火事を見かけたら消したいという気持ちが湧くか否かに関係なく、何らかの行動を起こすべきだというのは自明なことのように思う
やりたいこととやったほうがいいことの重なりを見いだす
今の自分とそれを取り巻く環境の中で、「やりたいこと」「やったほうがいいこと」に目を向けたとして、そこから自分の当事者性を見いだすためにどうしたらいいだろうか
まずは「やりたいこと」と「やったほうがいいこと」の重なりを見いだすことだと思う。あなたの心が動いて、かつ、状況がそれを要請することだ
そんなものがこの世にあるのなら教えてほしい。というのが正直なところだ
たまたまそういうものがあることもあるかもしれない。まさに時代が求められているような状態だ。ただ、たぶん世の中はすべての人のやりたいことで成り立っていない。。とても残念だけどう私はそう思う
だが諦めるわけではない、自分がやりたいことと、やった方がいいことを仮説立てて、重ね合わせの状態をまずは「みたて」たらいいと思う。前もって社会は用意してくれてはいないが、自分でつくることはできる
自分の気持ちがうごくことに意識を向ける、そこから、よく周りをみて何が起こっているかに目を向ける。そうしてやっと自分がどこに向かって何をするのかを考える
そういうやりたいこととやったほうがいいことの往復運動がみたてを生み出す。別の言葉で言えばあなたの当事者性の仮説だ
そのあとは、そのみたてを誰かに話してみたらいいと思う。当事者性はわたしたちそれぞれの外の話でもあるので、周りの意見は重要だ。そうしてみたてをもとに行動してみる。行動したらまた自分の気持ちにも耳を傾けてみるのがいいと思う
環境とわたし、私とわたし
当事者性に対するわたしのみたてを書いてきたが、まだもうひとつだけ考えてみたいことがある。それは「私の気持ちにわたしはどうやって耳を傾ければいいのか」ということである
なべの「自己整合」探究
私が所属するMIMIGURIのファシリテーション組織の責任者の渡邉(以下なべ)との1on1で、これまでなべは「自己整合」について考えてきたと話しをしてくれた
なべ曰わく、人は自分に対して思うイメージがあるが、多くの場合自分は日々変化しており、実際の変化している自分と、自分のセルフイメージにギャップが生じていることがある。こういう自己認知のギャップは、自分の立場やとりまく環境が変わった事で起こる事がある(意訳)
そういう自分が自分に持っているイメージと、実際の今の自分をすり合わせていくことを自己整合と呼んで、よいあり方をなべは探究しているようだった
わたしからみえていること、みえていないこと
それを聞いて、私は自分と環境の整合については考えて来たが、自己認識と事実とのすり合わせについては考えた事がなかったと思った
自分なりに整理すると、自分と自分以外を考える時に以下のようになる
私と環境をみたてながら、やりたいこととやったほうがいいことを整合させていく時に、私と環境に対して、自分が捉えているところとみえていないところがあるということが重要だと思う
わたしからみえないところを客観視することが重要だという言いたい訳ではない、私が捉えていることは自分固有のものでとても重要だ
そしてここが特に重要になるが、環境だけでなく、自分自身もまた変化しており、自分で自分についてわかっていないことが実はたくさんあるということだ。そしてあなたが学んで変化していればいるほど自分について理解することは難しくなる
肝要なのは、私が捉えていることと、わたしからみえていないことがある、ということを意識して、それぞれを探しにいく姿勢をもって観察し、洞察し、仮説立て、試し、すり合わせ続ける事だと思う。そしてそれは他者と共にすることで可能になる
環境とわたしの関係については多分もう2つぐらい記事を書けると思うが、私と私が思うわたしの関係についてはまだこれからだ
言葉にしてはいなかったけどやっていることもあると思う。振り返ったりなべや仲間とも話してみてまた記事にしてみようと思う