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音楽の魂
妻のみみさんが、舞台に上がる日がきた。
新型コロナウイルスで長らく休止されていたコンサートが、久しぶりに催された。
彼女は日ごろから練習に明け暮れていたが、この数日間の追いこみは体調を危ぶむほどだった。
教会のホール。舞台中央にスタインウェイと複数の譜面台。先頭の客席に座る。いちばん近くの席で見守りたかった。客電が消え、奏者が登場し、華やかなドレス姿の妻が現れる。
すっと背筋を伸ばして立つ姿は凛々しく、気品があり、息を呑むほどに神々しい。(うちでは普段着で気ままに過ごすチャーミングな姿を見てきたので、当然ながら見違えるようだった)
舞台に立つだけで圧倒的に目を引く人が存在することを実感する。
ああ、舞台に居るべき人だったのだ、やっと舞台に還ってきたのだ、と感慨深くなる。
日々をまっすぐに生きる姿勢が、余すところなく横溢している。
こちらも自然に手に力が入る。(できることなら、励ますように手拍子さえ打ちたい気分だった)
願ったことは、ただ一つだ。
今の自分を、出し尽くしてほしい。
理想に届かない声、安定しないポジション、体調不良、これまでの人生、失ったもの、苦しんだこと、幸せと喜び、支えてくれた人たち。すべてを背負い、すべてを引き受けて辿り着いたのが“今の自分”に他ならないと、この舞台上で悔いなく出し尽くしてほしい。
みみさんは時折、苦しそうに顔をゆがめ、パフォーマンスには必ずしも満足していない様子がうかがえた。ぼくの手にもいっそうの力がこもる。それでも最後まで歌いきり、ホールは温かな拍手に包まれた。
公演後の妻はやはり、「姿勢が安定しない」「声量が足りない」と反省を口にしていた。しかし、語弊を恐れずに言うけれど、そんなことは瑣末なテクニカル・イシューであって、一定水準をクリアしている以上、まったく本質的なことではない。(ましてや今日の観客はコンクールの審査員でもない)
もっと大事なことがある。
それは、ここが自分の生きる場所だと、舞台上で高らかに表現していることだ。この世界を生きるというステートメントを、客前で打ち立てること。自分の人生の時間を惜しみなく費やし、情熱を傾ける価値のある表現を示し、その世界観を聴衆と分かち合うこと。
その熱に、その狂気に、否応もなくあてられて、自分のふがいない日常をつかのま忘れ、大丈夫、このまま生きていけそうな気がする、と、勘違いでもいいから、生きる意味を掴み直したかった。それが音楽の魂だと思うから。
ぼくはその声を聴きに出かけ、そしてたしかに受け止めることができた。それだけでもう、胸は一杯だった。
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