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[短編小説] 京終 瞳は、きっと大丈夫。 

 「ねえ、桜井さくらいさん。何読んでるの?」
 声を掛けられた瞬間、自分の記憶がフラッシュバックした。

 ”雨降りのくもり空”
 ”湿気と校舎のカビの混じった臭い”
 ”私に向けられた鋭い眼差し”

 学生時代の苦い記憶が溢れ出しそうになるのを押しとどめ、意識を今に戻す。読んでいた本から視線を上げると、同僚の高本たかもとさんがひらひらと手を振った。
 オフィスの休憩室では他部署の社員が携帯端末を見ていたり、テーブルで談笑していたりと、思い思いに過ごしている。かくいう私は部屋の端のテーブルで読書をしていた。窓の外は雨が降っている。そのためか、今日は休憩室の人口密度が高い。とは言え、相席しなければいけないほど混み合ってもいない。にも関わらず、高本さんは私の向かいの席に座ってきた。
 「お腹空いっちゃったー!桜井さくらいさんはもうお昼食べた?」と高本さんは矢継ぎ早に質問してくる。どうやら、休憩時間を共にすることは決まったみたいだ。
 雨の日だというのに茶髪のミディアムボブからは枝毛すら出ていない。どうやって髪型を綺麗に保つことが出来ているのか不思議に思う。
 「お昼は食べ終わりました。それで、読んでいるのは小説です。高本さんもお好きですか?」
 私はどちらの質問に応えればいいか迷った挙句、両方に答えた。
 読んでいたページに栞を挟む。
 「本読むの苦手なんだよねー。活字を見てると眠たくなる、っていうかさ」と高本さんはビニール袋から取り出したサンドイッチの封を切りながら言ってきた。よく手入れされたネイルが照明を弾いて輝く。確かに、読書に時間を割きそうな人の指先ではなさそうだ。
 「桜井さんってどうして本読んでるの?」
 私の頭の中に「勉強になるから」とか「読解力がつくから」とか、ありきたりな言葉が思い浮かんだ。しかし、どんな言い分も、読書をしない人から理解を得られそうにないため、答えに窮してしまう。
 「高本さんは、どうして本を読まないんですか?」
 私は解答の糸口を見つけるために高本さんに訊ねてみた。
 「だって、どの本を読めばいいかわかんないし、それに、本を読まなくても困らないじゃん?」
 高本さんはサンドイッチをかじりながら言う。高本さんの言い分に、もやもやとした気持ちがわく。

 教室の中で一人ぽつんと佇む、あの人が思い浮かんだ。

 「でも、それかもしれないです」
 「”それ”って?」
 「”本を読まなきゃ困る”。だから、本を読むんじゃあないですかね?」
 「何か、『タマゴが先かニワトリが先か』みたいなかんじだね」
 高本さんの思いつきのたとえが合っているのかわからないが、話を合わせることにして、私は「『”困る”が先か”読書”が先か』‥」 と呟いた。
 高本さんはすでにその問いに興味を失くしたのか、一つ目のサンドイッチの残りを口の中に放り込んで、しばらく咀嚼した後「きっかけはなんだったの?」と聞いてきた。
  私は自分の記憶を遡る。先ほど閉めた記憶の蛇口の栓を緩めると、『高校三年生の六月』が溢れ出した。
 「きっかけは、クラスメイトから本をもらったこと、でした」
 私が応えると、高本さんが前のめりになった。
 「もしかしてそれって男子?」
 私はため息を吐いて「そういうのじゃないです」と否定する。
 がっかりした様子の高本さんから視線を移すと、オフィスの窓に雨粒がぶつかって滴り落ちていく様子が見えた。
 高校三年生の頃、教室で、京終きょうばて ひとみに対峙した時の記憶の断片と重なる。
 あの日、私が京終 瞳から本をもらった放課後の日も、雨が降る六月だった。
 「京終 瞳さんというクラスメイトがいたんです。高三の頃に同じクラスになったんですけど、その人はずっと一人でいて、いつも本を読んでいたんです」
 京終 瞳がクラスの人間と話す姿を見たことはなかった。切れ長の目と肩まで伸びた髪。きちっと着こなしたブレザーの制服。彼女の佇まいからは、近寄りがたい雰囲気があった。
 「浮いてる子?」
 ”浮いてる”という言葉にわずかに感傷が疼いた。高本さんに他意はないのだ、と心の中で自分に言い聞かせた。
 「彼女はいわゆる”浮いてる人”ではありませんでした。むしろ、そういう意味で”浮いてた”のは私の方で‥。高校生の頃の私は、八方美人で、ただ周りに合わせるような人間で。それでみんなからうっすらと嫌われていました」
 高本さんは「ふーん」と相槌を打ち、私に話の先を促した。
 「でも京終さんは私とは違って。何というか『仲間はずれで独り』というより『孤高の一人』ってかんじの人で」
 「それがどうやって本をもらう流れになるの?」
 「私が、放課後に教室で一人、読書している京終さんに話しかけちゃったんです。『何読んでるの?』って」
 高本さんは「さっきの私と一緒じゃん!」と手を叩いて笑った。私はそのまま話を続ける。
 「そうしたら、怒られちゃいました。『本を読んでる人に話し掛けるなんて失礼じゃない?』って」
 私の言葉に高本さんはわざとらしく不貞腐れた表情をした。その様子を見て、私は少し愉快になった。
 「それで私、ムッとしちゃって。自分が恥ずかしくなって逆ギレみたいなかんじで、『いつも一人で寂しそうだから話し掛けてあげたのに!』って反射的に言っちゃったんですよ」
 「それはよくないね」と高本さんに窘められる。確かに良くないことだ。今振り返ってみても、あの頃の私はまだまだ子供だった。
 「そうしたら、京終さんは、鞄から出した文庫本を私に差し出して言ったんです。『”一人が寂しい”だなんて、随分思い上がった考え方ね』って」
 「ふーん。でっ、その本をもらったわけだ」
 高本さんはビニール袋から菓子パンを取り出して齧り付いた。そんなに脂質が高いものを食べて、この後の仕事の生産性は落ちないのだろうか。勝手に心配になる。
 「私は借りたつもりだったんですけど、京終さんはその後、引越してしまったので、そのままもらうかたちになってしまいました」
 夏休みが明けた後、京終 瞳は教室から居なくなっていた。聞いた噂では彼女の両親が離婚して、どちらかの親の実家に移り住んだということらしい。彼女と仲の良い人がいなかったため(そもそも私には友達がいなかったのもあるけど)、その噂が本当か定かではなかったのだけれど。
 「結局、京終さんの真意は分からずじまいでした。だけど、私に変化がありました」
 「変化?」
 「はい。本を読みはじめてから、私は‥自分がクラスで浮いていても気にならなくなりました」
 読書をすることの意味は数多く言及されている。『語彙力が増える』だとか、『自分以外の人間の人生を追体験できる』とか、様々な謳い文句が世の中に流布している。それらも間違いではないのだろう。本を読む理由は人それぞれにある、のは間違いない。
 しかし、それは裏を返せば『本を読む明確な目的はない』とも言える。
 私は、自分の感覚を反芻してみた。
 本を読みはじめた時の感覚は朧げに覚えている。
 まずは超然的になった。一冊の本を読み終えた達成感が、自分を人間として一つ上のステージに押し上げたような錯覚が起きた。平たく言えば、”偉くなったような気分”だ。しかし、それと同時に本を読むことは、”自分は何も知らなかったのだ”という無力感を突きつけられる体験でもあった。
 私にとって、その矛盾を抱えること、あるいは受け入れること、それらを引っくるめて『本を読む』ということだ。だから、一言では定義できない。
 先ほど、高本さんに問われてあらためて考える。
 「読書をすることで、私は、きっと、当たり前のことですけど『人間は一人一人が違う』ということを、深い部分で理解できるようになったんだと思います。だから、クラスの人たちの輪の中に入れなくても仕方ないと思えるようになったというか‥」
 自分の喋る時間が長くなっていることに気付いて私は言葉を切った。仕事の休憩時間にするような話題ではなかったかもしれない、と後悔の念が広がる。
 しかし、私の心配とは裏腹に、高本さんはあっけらかんとして言った。
 「私はそういう人の気持ち、分かんないや。高校時代、楽しかったし。今も友達たくさんいるし。みんなが居るからいつも楽しかったもん」
 明るい人間は世界に歓迎される。高本さんは”人生”というステージを謳歌している側の人間だろう。そういう人は本を読む必要を感じないのかもしれない。”私たち側”の人間の気持ちは理解できないかもしれない。
 「でも、その京終さん? その人が桜井さんに本を渡した理由はわかるよ」
 「『困るが先か、読書が先か』の答えがわかるんですか?」 
 少し前のめりになった私に、高本さんが少し身構える。
 「それは知らんけど。でも、桜井さんは本を読んで、大丈夫になったんでしょ? だったら、それじゃない? きっと京終さんは桜井さんに『一人でも平気だ』って伝えたかったんじゃないの? 自分自身のことも桜井さんのことも『一人でも心配ない』って伝えたかったんじゃない?」
 高本さんの見解は、おめでたいほどシンプルだった。けれど、その前向きさは、さっぱりしていて高本さんらしい、とも思った。
 『一人になっても大丈夫。読書をしていれば』
 それが京終さんが伝えたかったことなのだろうか。もう二度と会うことはできないから。彼女の真意を確かめる術はない。ただ、私に本を渡してくれた理由が前向きなものであって欲しいと願う自分がいることは確かだった。
 読書が自分を育み、作り上げてくれた。世界に絶望せずに済んだのは、今日までいろんな本と出会ってきたおかげだ。それだけでも、きっと意味がある。
 また、自分が一歩前に進んだかんじがする。それが大事なんだ、と自分に言い聞かせる。

 時計を見ると、休憩時間が終わりを迎えるところだった。
 高本さんはゴミをまとめて捨てると、荷物を持って立ち上がった。そして、彼女は「これ、あげる」と私に向かってペットボトルのお茶を差し出した。私は思わずそのお茶を受け取る。
 「何でですか?」 私が困惑しながら尋ねると、
 「この間、桜井さん、私の仕事、フォローしてくれたから。そのお礼」と言われた。
 不意に自分のパーソナルスペースに踏み込まれたかんじがして、居心地が悪くなる。
 「一人が大丈夫なのは結構だけど、たまには周りの人と話しなよ」と高本さんは忠告してきた。重ねて「今度は私の話も聞いてね!私の輝かしい学生時代の話!」と冗談っぽく言い残し、休憩室から出て行った。
 高本さんの後ろ姿を見送って、私は手元のお茶を眺めた。
 京終さんに本を渡されたあの日から、私は一人が平気になった。しかし、こういう風に人の厚意に触れた時、他人の存在を満更でもないと思う自分がいる。私は矛盾した自分を抱えている。でも、それは当然だ。人間は一つの面だけで語れるものではない。
 私はペットボトルの栓を開け、黄緑色のお茶を一口飲んだ。茶葉の香ばしさと甘味が混じって口の中に広がった。

 京終さんは今も一人で平気なのだろうか?

 ふっと、そう思った。
 私はあの時、きっと、京終さんに自分の存在を掬い上げてもらった。私は、『独りの世界』から『一人の世界』の岸辺にたどり着くことで命からがら生き延びることができた。そして、今がある。京終さんのおかげで。
 しかし、私は彼女に何も返すことが出来なかった。今はそのことが気掛かりだ。
 京終さんが教室で一人、本を読んでいた姿を思い出す。誰にも近寄らせない佇まいは、孤高の強さにも、理解を得られないことへの諦観にも見て取れた。
 どうか、京終さんの近くにも、彼女を掬い上げてくれる存在がいますように。
 私はそう願った。
 飲み込んだお茶が、口の中で苦味に変わっていく。
 窓の外の雨は、まだ降り続いていた。


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