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【歴史】近江赤田氏の歴史

さて、越後における嫡流の赤田氏は滅び、赤田という名字を保ったまま存続したのは、京極氏に仕え近江へ居住していた等の四男・の系統だけであった。(近江赤田氏)

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【歴史】越後赤田氏の歴史|赤田の備忘録


近江赤田氏の嫡流系図

備が佐々木道誉に仕えた正確な時期は不明だが、「太平記」によると、1335(建武二)年の相模川の戦いの際には赤田の名が見られることから、この時期には道誉に従っていたと考えられる。

また、『多賀町史 上巻』によると、赤田備の子・の時にはすでに犬上郡曾我村(多賀町)へ移住していたというが、たしかに道誉は1354(文和三)年4月に、尊氏(幕府)から勲功賞として出雲国富田荘・美作国青柳荘・近江国江辺荘幷鳥羽荘下司職・同国多賀荘・一円石炭召次等を、1359(延文四)年6月には義詮から勲功賞として近江国多賀荘地頭職を得ているので、1350年代には移住していたのかもしれない。

この地にはもともと曾我氏が住んでいたが、南北朝時代に南朝方についていたために時代から消えていったのだと思われる。

その後百年余り赤田隆に至るまで同地に居を構え、芹谷一帯の治水や神社仏閣の保護再建につとめたようであるが、その事跡について多くは伝えられていない。系譜に関しても、栄の後、弟で養子となって相続した源次向―左衛門尉直―肥後守の三代は『尊卑分脈』等の系図や、幕府・相国寺の史料等で確認できるものの、その後の信濃守衒―隼人正滋―信濃守輝―隼人正の四代の間の人物名は出典が不明であり、伝承・古記録によるものであるという点に注意しなければならない。

曽我時代には、開蓮寺が赤田氏の菩提寺となっていたようである。

※高の子と思われる「信濃守」という人物については応仁の乱の時、東寺百合文書に記載があるが諱は不明。

※現在も曽我付近には、「赤田井堰」や「赤田川」など治水工事の痕跡が残っている。月ノ木の「西性寺」(旧「月休殿」)は赤田隼人正による再建であると『淡海古説』に伝わる。

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永正(1504-1521)年間になると、は家臣の夏原氏・伊藤氏らを引き連れ曾我の地を去り八町(豊郷町)へ移り、八町城主として犬上郡の一角に勢力を張ったようである。1512(永正九)年には将軍・足利義尹(のち義稙)の命により、近江佐々木氏征討として森可成の曾祖父・森可房や鯰江高昌、朽木一党らが近江赤田城へ夜討ちを行い、森可房を討ち取ったというが、この赤田城が曽我のものであるのか、八町のものかは不明である。

また、隆は領内の水利をはかり、橋を架け、道を開くなど善政を敷いた人物として知られており、領民からは父のように敬い親しまれていたという。晩年は戦乱の世を嘆き、61歳のとき常禅寺を建て、嫡子・に家督を譲った後出家し禅三昧の生活に入り、1555(弘治元)年に76歳で逝去したとされる。常禅寺境内には「赤田隼人正頌徳碑」や「赤田高公の墓」等が現存する。

16世紀中頃、京極氏の家臣であった江北の浅井氏が勢力を拡大してくると、興はその傘下に就き、永禄の始めに浅井氏から草野谷の領地を与えられたという。また、1559(永禄二)年に高野瀬秀隆が六角方から浅井方へ離反した際には、激怒した義賢が肥田城へ水攻めを行うが、近隣の城に居住する浅井方の赤田信濃守や川瀬壱岐守・高宮三河守らの救援や、折からの降雨もあり水攻めは失敗に終わり、六角軍は退却することとなる。翌年には戦の延長として野良田の戦いが勃発する。

1556(永禄九)年7月29日、浅井氏と六角氏の間で戦いが起こった際には、八目に敗走してきた浅井方の武将・磯野員昌を八町城に匿うが、九月に入り城内の者が六角家臣・高野瀬秀澄に内通し城内に放火する。これを受けて浅井長政も参戦することとなり、高野瀬氏の居城・肥田城から八町城にかけての一帯で激しい戦いが展開する。この戦で高野瀬秀澄や、六角本本隊から派遣されていた三雲賢持らが戦死し六角方は敗戦した。なお、この際に嶋若狭守へ宛てられた赤田興の書状が「嶋記録」に残されている。

1573(元亀元)年に起こった姉川の戦いでは、興の子(あるいは弟)とされる(信光とも)は浅井側の第一陣として活躍し、織田方の先鋒を務めた坂井政尚の甥・坂井十兵衛を討ち取るなどの戦果を挙げたという。浅井氏が織田方に滅ぼされた後に姓の子・は織田家重臣の丹羽長秀に仕え、近江衆に加えられて長秀の娘・決光院を正室に迎えた。また、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると秀吉に仕官することになるが、その後間もなく1593(永禄二)年に35歳で死去したとされる。

堅が死去した時、残された子息たちはいずれも幼少であったので領地は没収され、一族離散の危機にあったという。このような状況で、堅の子とされる虎之介はお家再興の機会を願っていたところ1600(慶長五)年になって関ヶ原の戦いが起こり、豊臣氏との縁から西軍につくも敗北。虎之介はもはや竜神に願う他どうすることもできないと悟り淵に身を投じて大蛇(竜神)になったという。(『豊郷村誌』にこの物語を描いた「藤淵物語」が収録されている。)

※なお、姓以降の名前に関しても確実な史料といえるものはなく、古記録や伝承に基づくものであるので注意が必要である。

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