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【歴史】観音寺騒動について

前回までは、観音寺城そのものや建物について紹介をしてきた。

↓前回はコチラ。
【歴史】幻の山岳城・観音寺城④|赤田の備忘録


今回からは、建造物としての観音寺城から打って変わって、日本史上においてこの城がどのような役割や意義を持ち、どのような一族によって治められたのかに焦点を当てて、紹介したい。

なお、以下の文章についても歴史家・田中政三氏の『近江源氏 1巻』を中心に補足していく形になるので、時間軸のズレや取り上げない項目もあるかと思うが、その点はできる限り補筆として書ければと思っている。

では早速、観音寺城で起こった出来事として有名な戦国時代の「観音寺騒動」(「後藤騒動」とも)について紹介したい。

まずはその定説から述べることとする。

・観音寺騒動の定説

〈系図〉
六角高頼 ― 定頼 ― 義賢(承禎) ― 義弼(義治)

観音寺騒動(後藤騒動)が起こった1563(永禄六)年、当時の佐々木氏の家老は六人おり、

後藤但馬守
進藤山城守
目賀田摂津守
蒲生兵衛太夫
三雲三郎左衛門
平井加賀守

であった。

その中でも筆頭家老であった後藤但馬守賢豊という武将は特に家臣からの信任が厚く、高い名声を誇っていた人物であった半面、これを妬み、良く思わない人物もいた。佐々木義賢(承禎)の嫡男・義弼(義治)である。そこで義弼は当主としての威厳・権力を取り戻すために、家臣の種村三河守建部日向守の両名に後藤但馬守の謀殺を命じたのである。二人は始め説得を試み強く諫言したが適わず、結局この命に従うこととなり、但馬守とその嫡子である壱岐守へ登城を命じ、討ち取ることとなった。

これを知った佐々木家の重臣たちは不信ののろしを上げ、観音寺城内の自らの屋敷に火をかけて、それぞれの本拠地へ引き揚げ、自城にこもって反旗をひるがえしたという。

また、この時の火災で観音寺城は全焼し、全山が灰塵となったが、これに驚き恐れた義弼は逃亡し、父承禎入道義賢はまだ健在であったので、家老の蒲生賢秀を頼って同氏の居城である日野城に逃げ込み、事後処置を任せることとした。

結果としては、義弼の弟、義定を城主に観音寺城を再建すること、但馬守の次男、喜三郎に後藤家を相続させ父と兄の旧領を与えることなどを条件としたことで諸将も了承し、大事に至らず落着した、というものである。
(同書、143-146頁。)

以上が世に知られる観音寺騒動のあらすじであるが、ここで田中の異論として、定頼義賢などは観音寺城主・佐々木六角嫡家ではなく、あくまで後見・執権役であり、かつ筆頭分家・箕作城主であるため、承禎の嫡子、義弼は観音寺城主ではなく、このころは義秀が城主であったという主張がある。

※義秀については以下の系図の通りである。

〈系図〉
六角高頼 ― 氏綱(定頼の兄) ― 義実 ― 義秀

ただし、「義秀の父・義実の猶子(※相続権をもたない養子)となっていたと伝える文献もあることから、城主・義秀の義兄弟となり、観音寺城に居住し城主の控え柱という格で重きをなしていたことは想像される」としていることからも、義弼及びその父・義賢が権力を持っていたのは事実であり、そのために義秀を筆頭とする観音寺城主派と、義賢・義弼父子を筆頭とする箕作派、さらにその中間派まで生じており、それが後藤父子(観音寺城主派)を義弼(箕作派)が殺害するという結果にまで発展したのだと言う。
(同書、147-151頁。)

※なお、観音寺騒動後に義賢を保護し仲裁を行った蒲生氏は、箕作派には、その援軍のおかげで庶流から嫡流となることができた恩があり、城主派の後藤氏とは親戚関係であったことから、どちらにも付かず中立派であったという。

※また「箕作派」とは、義賢・義弼の居城が箕作城であり、彼等自身も箕作姓を名乗っていたことから、分家筆頭の後見・執権職を務めた家をこのように呼ぶという。

つまり田中が言うには、以下の系図が正しいのである。

<系図>

嫡流  :  高頼 ― 氏綱 (兄)― 義実(叔父・定頼が後見) ― 義秀(定頼の子・義賢が後見)

分家  : (高頼)   ― 定頼 (弟)― 義賢(承禎)       ― 義弼(義治)

高頼に勝るとも劣らぬ名将の器であった定頼は1552(天文二十一)年に死去。その五年後の弘治三年には義実も死去したため、その子・義秀が若年で相続した。そこで後見・執権職を務めた定頼の子・義賢が引き続き役目を継ぎ、その4、5年後に起きたのが観音寺騒動であり、高頼から定頼(後見・執権職)、義賢(後見・執権職)に至るこの三代の間が観音寺城、すなわち佐々木六角氏の全盛期であったとしている。

また田中は、定説では観音寺城はこの時に全焼したとあるが、自身の発掘調査からは火災の痕跡が全く見られず、全焼したと考えるのは信じ難いとしている。

また、城主の系譜については、何度も繰り返し定説

高頼 ― 定頼 ― 義賢 ― 義弼

の流れではなく、

高頼 ― 氏綱 ― 義実 ― 義秀

であると述べており、その根拠として、箕作城主系は佐々木六角と名乗ったものはなく、いずれも定頼は「箕作弾正忠源定頼」、義賢は「箕作左京太夫源義賢」を称し、紋章も佐々木正紋の「正四つ目紋」は用いていないこと、各古記録全てにおいて嫡流と称したものはないこと、義実義秀を「観音寺城主」や「御屋形」、「江陽屋形」と尊称することなどを挙げており、これらは実に8年の歳月をかけて、観音寺文書や沙々貴神社文書を含むあらゆる史料を研究した結果にたどり着いた答えであるという。
(同書、234-334頁。)

次回は、近江佐々木氏を中心に多くの記述がある書物で、かつ昔から「偽書」と見なされ悪評を受けてきた『江源武鑑』という書について、その偽書説と田中政三の見解・立場についてを見ていきたい。


↓次回はコチラ。
『江源武鑑』と田中政三①|赤田の備忘録


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