【歴史】岡左内2【系譜と出生地についての考察②】
さて前回に引き続き、岡左内という武将の系譜と出身地について考察を重ねていきたいと思う。
② 近江国日野
近江国日野は、現在の滋賀県蒲生郡日野町のことで、代々佐々木六角氏重臣の蒲生氏が治め、近江商人(日野商人)による商いで栄えた町である。岡左内にとって最初の主君が蒲生氏郷であり、蓄財を楽しみとした彼にとっては非常に縁の深い地域と言える。
さて近江の、特に日野周辺の岡氏について調べた時に、複数の岡氏が蒲生家に仕えていたであろうことが判明した。
・蒲生家世臣・岡惣左衛門の末裔とする説
『近江蒲生郡志 巻8』「岡氏邸趾」の項によると、岡氏について以下のように記述される。
ここでは、岡左内は蒲生氏に仕える「岡惣左衛門」を名乗る家系の末裔だという。また、『近江蒲生郡志 巻7』「法興寺」の項にも岡一族に言及がある。
「惣」と「宗」のように漢字は異なるものの、昔はかなり適当なもので、音さえ合っていれば「十」と「重」や、「九」と「久」のように同音で補うことも多くあったと考えられるので、この両者は同一人物か同一の家系の者であろう。
さらに『近江蒲生郡志 巻3』には、この岡氏は代々「惣左衛門」を襲名し、その本姓は「太秦氏」であり、その証拠として、天文十八年綿向神社棟札に「岡宗左衛門太秦秀憲」とあることを述べている。また、安土浄巌院過去帳に「天正八年三月二日日野岡越中守殿心暁正安」や、天正十五年の綿向神社奉加帳に「岡惣左衛門」「岡藤三」「岡九兵衛」の名がみえるという。
(滋賀県蒲生郡『近江蒲生郡志 巻3』蒲生郡、1922年、326-327頁。)
以上のように、日野には岡姓を名乗るものが複数おり、前回述べた『系図綜覧』による岡左内は武田氏流の岡氏で「清和源氏」であり、この惣左衛門家の本姓である「太秦氏」とは異なっている。また、蒲生家臣の石高と名前が併記された「會津分限帳」なるものが記載されているが、そこには「八千石 岡左内」と「二千石 岡惣左衛門」の両者が同時に見られるため、両者が同一人物ではないことは明白である。また、岡左内も日野に住居を有していたことは想定でき、木津という地域にはたしかに「木津岡山城跡」という城郭跡が現在の法興寺の場所にあったとすることは事実である。しかし、その付近に岡左内を含む岡氏の邸宅があったことが分かる史料の出典は不明で歴然とせず、城跡についても「岡宗左衛門」という武士がこの寺を屋敷にしっと伝わるのみであり、岡左内を岡惣左衛門の一族と断定できる証拠は見つからなかった。
せめて岡左内が本姓を含んだ署名をしていれば良かったのだが…。
・馬淵氏流青地氏の流れを汲むとする説
次に、岡左内を「青地氏の流れを汲む者である」とする記述があることについて考えたい。
『蒲生氏郷のすべて』の「岡左内」の項では、「佐々木六角氏の重臣青地氏の流れを汲み、永禄十一年(一五六八)の六角氏没落後、青地氏と縁戚であった蒲生氏に仕える。」とあり、岡左内はこの家系に連なる人であったとしている。
青地氏とは、佐々木氏より分かれた馬淵氏の支流にあたる家であるので、本姓は「宇多源氏」である。また、「蒲生氏と縁戚であった」というのは、蒲生氏郷の祖父・蒲生定秀の妻が馬淵氏の娘であったことから、その次男で氏郷の叔父にあたる茂綱が青地長綱の養子となったことを指すと考えられる。岡左内が具体的にどのような関係性をもっていたかについて明示した資料はないが、ここで前回記した岡左内の系図を再び見てみると、ある可能性が浮かんでくる。
・複合説 (筆者の持論)
〈系図〉
定俊 (岡左内) — 成俊 (江州岡地頭・刑部左衛門尉) ―
信俊 (馬淵・多賀彦七郎・刑部太郎) ― 信茂 (馬淵弥七郎) ― 信澄 (右馬頭)〈以下略〉
左内の祖父・曽祖父にあたる信俊や信茂を見ると、その号に「馬淵」を用いていることが分かる。つまり、信茂の代に武田氏より馬淵氏(あるいは青地氏)の一族へ養子に出て家を継ぎ、この家が岡氏を名乗ったのではないかと考える訳である。(また補足として、前述の青地氏へ養子に入った「茂綱」がいたが、この前後に「茂」を諱に用いる人物が青地氏に複数いることが確認できた。)
また、左内の祖父にあたる信俊は別の号として「多賀」をも用いているため、信俊はあるいは養子としてこの家に入ったか、多賀氏へ養子に行った可能性もあり、その子・成俊の代から岡氏を称したとも考えられる。(多賀氏は佐々木京極氏の重臣である。)
そして最後に、左内と「成俊」の関係である。最初の説で「山縣氏説」を述べたが、この系図では養子であっても簡略化して書かれてあると想定すると、この親子間も養子関係なのではないかと推測できる。
要約すると、武田氏に生れた信茂が近江の馬渕氏(青地氏)の養子となり、その子信俊も同国近江の多賀氏からの養子(あるいは多賀氏の養子)として家を継ぎ、その子成俊の代に岡氏を称すようになった。しかし成俊にも子がなかったので若狭武田氏の流れを汲む山縣氏から養子を迎えて継がせ、それが岡左内であったのではないか、という説である。
つまり、血筋的には清和源氏武田氏流の流れを汲み、家系的には宇多源氏馬渕氏流、あるいは中原氏流多賀氏の岡氏といえる。
以上を突拍子のない説と思われるかもしれないし、筆者自身も全てが正しいとは決して思わないが、複雑な養子関係や、戦国時代という四百年以上続いた佐々木六角氏が滅亡するような動乱の時代にあって家系が正しく伝えられることは難しく、岡左内も同様であっただろう。
名門・佐々木六角氏でさえ、その嫡流について沢田源内の『江源武鑑』の真偽を巡って現在でも議論が展開されるなど、明らかでないことは検証を重ねる他ないのである。(ちなみに筆者は『江源武鑑』を偽書と決めつけず、色眼鏡なしに根本の部分から徹底的に検証究明すべきという立場。)
岡左内については、まだ研究が進んでいないことが多くあるが、ひとまずその家系と出身地についての考察は以上としたい。
参考文献
・『近江蒲生郡志 巻7』、弘文堂書店、1980年。
・『近江蒲生郡志 巻8』、弘文堂書店、1980年。
・国書刊行会編『系図総覧』国書刊行会、1925年
・滋賀県蒲生郡『近江蒲生郡志 巻3』蒲生郡、1922年。
・杉原丈夫、松原信之共編『越前若狭地誌叢書 下巻』松見文庫、1973年。
・平井聖[ほか]編『日本城郭大系 第11巻』新人物往来社、1980年。
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