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【歴史】赤田興について
赤田興(おこる)
生没年:不明―1568(永禄十一)年5月
官位 :信濃守
別名 :「定興」と表記する書物もある
戒名 :瑞龍院殿潭月宗忠大居士
↓赤田興の父・隆については以下を参照。
【歴史】赤田隆について|赤田の備忘録
次に隆の嫡子・興について見ていくが、興は唯一、織豊期前後においては史料によってその諱がはっきりとしている人物である。
隆が家督を興に譲ったのは1541(天文十)年の時で、実質的に当主としての動きが見られるのは、1568(永禄十一)年に討死するまでの僅か9年間ほどであるが、その伝えられる事跡は多くある。
・肥田城の戦い
前回の記事で、永正の始めに高野瀬氏が六角方から京極方へ離反し、これに赤田氏も呼応したことを述べたが、それから約50年後の1559(永禄二)年に、再び高野瀬隆重の子・秀隆の時に、高野瀬氏は六角氏から離反している。
この時、六角氏を指揮していたのは六角承禎(義賢)であったが、彼は激怒し、高野瀬氏の居城・肥田城へ水攻めを行う。しかし、ここで近隣の城に居住する浅井方の赤田信濃守や川瀬壱岐守・高宮三河守らの救援や、折からの降雨もあり水攻めは失敗に終わり、六角軍は退却することとなったという。
この戦に見られる「赤田信濃守」というのが興を指し、赤田氏当主として最初に見られる戦であろう。また、この時にはすでに赤田氏も、かつて同じ京極氏の被官で、京極氏が家督相続争いで衰退すると共に、江北の権力を掌握し勢力を伸ばしていた浅井氏に仕えていたであろうことが窺える。
・屋守城攻め
この肥田城での戦いの延長として、翌年1560(永禄三)年には、野良田の戦いが勃発し激戦が行われているが、これに勝利した浅井氏は勢いをつけ、六角氏追撃に乗り出した。『近江愛智郡志 巻1』によると、この時の赤田氏についての動向は以下のようにある。
平井加賀守定武の平井城を攻めんとし高野瀬秀隆 赤田信濃守定興 等を指揮して兵を進む。先づ屋守城に杉立高政父子を攻む。刈間の館主満島孫市は杉立氏の與力なれば變を聞て来り援けしに衆寡敵せずして奮戦々死す。高政等城を出でて平居の平井城に奔る。浅井勢屋守城を占領す。八木荘村大字矢守は屋守氏在城の所にして城址猶存す。
この杉立氏や満島孫市については、田中政三氏の『近江源氏 3巻 (佐々木氏の支流・分流)』の中で説明があり、六角氏の物頭で箕作義賢に取り立てられ、矢守に出城を築き、石見守が城主となったことが記されている。また、その一族家臣については以下のようにある。
城守 杉立石見守高信 岩態石見守息
家老 杉立左近 三橋主水 沢民部少輔
観音寺城詰 杉立三河守高政
その他 杉立孫九郎 杉立藤右衛門尉
矢守城付地侍
矢守自在兵衛 矢守万五郎 加藤野六左衛門 坂倉与惣左衛門
与力頭 満島孫市(刈間城主)
攻め込まれた時、矢守城では城主石見守の実子・高政が観音寺城の在番から暇をもらって帰っていた時で、一族や配下ら百人余が酒盛りをしていた最中のことであったという。なお、「新開略記」によると、満島孫市を討ち取ったのは、高宮三河守の家臣・馬場惣左衛門であるという。
1566(永禄九)年4月8日には、『東浅井郡志 巻3』によると、今村肥後守が浅見對馬守と共に、赤田信濃守興の儀に就き、浅井長政より命を受けたとある。
(黒田、1927年、764-65頁。)
・身内により火の手にかかる八町城
1566(永禄九)年7月29日、浅井氏と六角氏の間で蒲生野合戦が起こった際には、八目に敗走してきた浅井方の武将・磯野員昌を八町城に匿うが、九月に入り城内の者が六角家臣・高野瀬秀澄に内通し城内に放火する。これを受けて浅井長政も参戦することとなり、高野瀬氏の居城・肥田城から八町城にかけての一帯で激しい戦いが展開する。この戦で高野瀬秀澄や、六角本本隊から派遣されていた三雲賢持らが戦死し六角方は敗戦する。またこの時、嶋若狭守へ宛てられた文書に赤田信濃守興の名前と判が確認できる。
(『嶋記録』)
なお、六角氏に通じた赤田一族の者に関して、その名は不詳であるが、以前からその兆候があったことが示唆されている。
・北之庄合戦において興討死
1568(永禄十一)年5月、興は戦に大将として参陣することになるが、その経緯は次のようである。
宇野因幡守・辻伊賀守・川副兵庫之助らのことを北之庄三人衆と呼ぶが、いずれも六角氏の近習物頭として北之庄(現:宮荘町)に居住しており、高野瀬秀隆と謀って浅井長政に通じていた。それを察した後藤但馬守賢豊は、種村氏や磯部氏を従えて対峙し、新しい関所を設けて人々を確かめ、浅井氏との内応を絶つように仕向けたという。
これを聞いた浅井長政は、赤田信濃守興を大将として遣わして北之庄三人衆を援けるよう命じ、また自らも北之庄の西南に陣を置いた。戦は激戦を極め、多くの死傷者を出し、結果として浅井氏は勝利したものの、北之庄三人衆は討たれ、赤田信濃守興も位田村において徳永太郎兵衛(伊庭家臣か)という者に討たれてしまったという。
興の討死の場所には、子孫が塚を築き「卯之樹」を植えたもと伝わり、興の位牌は蔵福寺に保管されているという。興のことは古記録『淡海秘録犬上郡之巻(抄)』や『淡海国木間攫』等にも同様のことが記載されている。
※陣の位置は竜田町小字「浅井」「円上」、宮荘町小字「上浅井」「下浅井」として残る。
参考
・近江愛智郡教育会編『近江愛智郡志 巻1』滋賀県愛智郡教育会、1929年。
・黒田惟信編『東浅井郡志 巻3』滋賀県東浅井郡教育会、1927年。
・田中政三『近江源氏 3巻 (佐々木氏の支流・分流)』弘文堂書店、1982年。