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【歴史】浅井氏の歴史まとめ

浅井氏の出自について
近江浅井郡に居を構えた豪族の浅井氏の出自には、よく知られた二つの俗説がある。

・三条公綱落胤説
これは『浅井三代記』によれば、嘉吉年中に三条大納言公綱が勅勘を蒙って左遷され、近江守護の佐々木京極持清に預けられて、三条家の知行地として近江浅井郡丁野村を与えられてそこに住んだが、そこで一子もうけたのが浅井氏の祖の浅井重政とするもので、3年後に勅勘を許されて公綱は京に戻るがほどなく亡くなったという。三条公綱は、藤原北家閑院流正親町三条家(嵯峨家)の一門であり、これを受けた『寛政重修諸家譜』にも藤原公季流(閑院流)と記されている。ただし、三条家の近江の知行地は坂田郡加田村と別地であり、三条公綱の没年が記録と合わず、勅勘を蒙って左遷されたという事実も見当たらないため、『浅井三代記』と『浅井系図』による創作とみなされている。

・物部守屋後裔説
史料集覧』によれば、敏達天皇、守屋大臣の後裔俊忠、その子式部大輔藤原忠次、初めて武家となり、浅井郡の五ヶ所村を知行して、俊政より27代後が浅井亮政とするものである。亮政の父を廣政とする。これが浅井氏を物部姓守屋流とするものであるが、この説は物部守屋を敏達天皇の子としたり、物部姓と藤原姓が混濁するなど明らかな問題がある。

古代・中世の浅井氏
竹生島縁起』には871(貞観十三)年に浅井盤稲、翌年に浅井広志根らの名が記されている。平安時代初期から浅井を名乗る人々がいたと考えられるものの、同書は室町時代に編纂された点に注意が必要である。

確実な史料としては、滋賀県長浜市の源昌寺本尊薬師如来背銘に1215(建保三)年の銘があり、浅井氏の名が記されている。また、1231(寛喜三)年の年号を持つ円満寺の古鐘銘にも浅井氏の名が見えることなどから、浅井氏は鎌倉時代よりこの地に勢力を持っていたことは疑いない。

ただし、これ以降15世紀後半まで浅井氏に関する史料は途絶えるため、彼らが戦国時代の浅井氏に直接繋がるとは断定できない。

戦国大名浅井氏に繋がる人物が現れる最古の史料は1480-81(文明十二-十三)年ごろの『清水寺再興奉加帳』で、「江州浅井蔵人丞直種」の名がある。『江北記』によれば、浅井蔵人とは備前守(浅井亮政)の父である。『江北記』には京極氏の「根本当方被官」12氏として、今井氏、河毛氏、赤尾氏、安養寺氏、三田村氏らとともに浅井氏が列記されている。


浅井氏系図(諸説あるため亮政以前は省略。)

・歴史
浅井氏は元は近江守護京極氏の被官だったが、京極氏の内紛(京極騒乱)をきっかけに大きく成長を遂げることとなる。

京極高清(十四代)はこの内紛に勝利したものの、京極氏は弱体化し、京都にいることの多い高清に代わり江北を実質的に支配したのは高清の勝利に貢献した上坂家信だった。1521(大永元)年に家信が死去し、家信の子・上坂信光が跡を継いだが、信光も家信同様専横を強めた。1523(大永三)年、浅井亮政・浅見氏・三田村氏・堀氏・今井氏といった国衆は上坂信光と京極高清・高吉父子を尾張へ追い出した。浅見貞則を盟主とする国人一揆は京極高延(高清の子・高慶の兄)を新たな守護に擁立した。

しかし浅見貞則もまた専横を強めたため、大永4年末~5年初頃に、浅井亮政京極高清を復帰させることで浅見貞則を失脚させた。

これにより亮政は国人一揆の盟主となったものの、江南の六角氏の度重なる侵攻に悩まされることとなる。他方で、六角氏という外敵に対し国人らが危機感を抱いたことで、浅井氏が上坂氏・浅見氏と同じ末路を辿らずに力を強めることに繋がったとする見解もある。なおこの時期から浅井氏と朝倉氏が同盟関係にあり、六角氏が小谷城を攻めた際に朝倉宗滴が浅井氏来援に訪れたとする話があるが、実際には六角氏に合力したものと現在では考えられている。

・京極氏から六角氏へ
1534(天文三)年8月20日、亮政は小谷の宿所で京極高清・高延父子を饗応する。それまで国人たちの筆頭にすぎなかった浅井氏は、この饗応を通じて、浅井氏が国人たちの上に立って京極氏を支える地位にあること、それが京極氏に公認されたものであることを、国人たちに痛感させた。

1538(天文七)年、京極高清が死去したことで高延が跡を継ぎ十五代となるが、これを好機として京極高吉六角定頼が手を結んで攻勢に出る。亮政は敗北し和議を結ぶが、今度はその内容に不満を抱いた高延が1541(天文十)年、亮政に対して反旗を翻す。1542(天文十一)年に亮政が死去したこともあり高延は勢いに乗り、亮政の跡を継いだ久政は1550(天文十九)年頃に高延と和議を結ぶ。

高延と久政は江南に攻勢をかけるが、1553(天文二十二)年、逆に六角義賢敗北し浅井氏は六角氏に服属的な地位となったとされる。久政の嫡男・猿夜叉は義賢の偏諱を受け賢政を名乗り、六角氏重臣・平井定武の娘を娶った。

・尾張織田氏との同盟から滅亡へ
1560(永禄三)年、浅井賢政は妻(平井氏の娘)を強制的に送り返し、強硬派家臣を率いて六角氏との決戦・野良田の戦いに臨み、六角義賢に大勝する。

浅井氏を六角氏から独立させると、久政は家臣たちから強制的に隠居させられ、浅井家当主の座には賢政こと、浅井長政が座ることになる。しかし、久政の政治的発言力が完全に失われたわけではなく、隠居後も彼は浅井家中において一定の発言力を有していたという。

長政は(永禄十)年頃に美濃を支配した尾張国の織田信長と同盟を結び、信長の妹・お市の方を妻として迎えて、六角氏からの自立を図った。信長は将軍足利義昭を奉じて上洛し、義昭を通じて畿内や地方に影響力を強めており、信長との同盟は臣従的であったが対六角氏との関係では効果的に機能した。しかし、1570(元亀元)年に、信長が浅井氏の同盟国である朝倉義景を攻めるべく越前に侵攻すると、家中には動揺が生じたという。

信長の朝倉侵攻に際して家中では織田と朝倉のどちらに味方するべきか意見が分かれるが、浅井久政や宿将の赤尾清綱らが親朝倉路線を主張したためか、同年4月には長政は信長との同盟を破棄し織田軍に背後から襲いかかっている(金ヶ崎の戦い)。これにより長政と信長の同盟関係は手切となり、以後両者は対立関係となる。同年6月には浅井・朝倉勢と織田勢との間で勃発した姉川の戦いにおいて敗退する。

その後、朝倉氏の他に摂津の三好氏や、六角氏など信長に圧迫されていた勢力も対抗姿勢を強める。元亀2年には信長と将軍義昭が敵対し、義昭は浅井・朝倉氏本願寺など畿内勢力のほか甲斐国武田氏などの遠方勢力に呼びかけ信長包囲網を迎合するが、元亀4年に甲斐の武田信玄が三河・尾張への侵攻(西上作戦)中に病没すると、信長は反攻を強めた。

同年に信長は将軍義昭を京から追放し、1573(天正元)年に織田勢が浅井氏の本拠である小谷城へ侵攻すると(小谷城の戦い)、朝倉氏は小谷城への救援のため派兵するが織田勢に敗退し、滅亡する(一乗谷城の戦い)。小谷城において抗戦した長政・久政親子も自害し、浅井氏は滅亡し

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