【歴史】幻の山岳城・観音寺城③
前回は数々の曲輪が観音寺城に存在していたことを紹介した。
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【歴史】幻の山岳城・観音寺城②|赤田の備忘録
その建物は具体的にはどのようなものであったのだろうか。今回は城と周囲の設備等について、もう少し掘り下げて見てみたい。
・観音寺城の建物の屋根の構造
建物は数多く存在していたが、発掘調査によると観音寺城では瓦が全く出土されないことが確認されたという。また、建物の構造や専門家の意見に加え、近隣には昔からその群生地帯が存在することから、観音寺城にあった建物は瓦葺きではなく、葭葺き(よしぶき)であったと田中は断定している。
(同書、141頁。)
・郡在する庭園
また、これらの大きな曲輪や屋敷にはみな、必ず池泉式の庭や平庭、または前栽が造られてあったという。その中には滝を取り入れた池泉回遊式の大庭園もあれば、枯山水の庭と推定されるものもあり、平井曲輪には座敷・茶室などもあったという。
このように、現存はしないものの、その遺構から当時の武将たちの暮らしを垣間見ることができる。
(同書、38-42頁。)
・水濠について
ここまでは個人の屋敷や曲輪といったものを見てきたが、より大きなスケールで観音寺城を見てみたい。そこで注目するのが、一般的に城造りをする際の最重要項目の一つと言っても良い「水」との関係性である。
大きな城では水堀を造って敵の侵入を防ぐことが一般的であり、またその場合、海や湖がある地域ではその近くに城が建てられることが多い。現に観音寺城も、現在は大中の干拓により埋められてしまっているが、当時は安土山の西側が琵琶湖と接していた。
(湖上の運搬を利用する際には近江八幡の津田湊などを利用していたというが)
そして、観音寺城は水堀を有する城であったと考えられているが、この城の驚くべきは、濠に使う水は琵琶湖から引いたものではなく、遠く愛知川の上流(神崎郡妹村)から十余キロの水路を造り、二十余カ村の地を経由して、観音寺城の石寺まで引いていたというのである。
更にこれは、水堀のみならず城下町の町人や八日市、五個荘、安土、近江八幡の一部に及ぶ広大な地域の野内で使用することができる用水としての役目をもっていたという。
これは当時では相当困難な大工事であったと考えられ、これを実現するこができる近江佐々木氏の繁昌振りが窺える。
(同書、29-30頁。)
しかも、これだけ巨大な水路を構築しておきながら、観音寺城の恐ろしい所は城内にも水源を保有しているという点である。
観音寺山(繖山)には、清水が湧き出ており、山頂付近(地上400メートル)でさえ、日照りが続いても枯れることがなかったという。日本全国でもこれほど用水限を豊富に保有できる城は滅多になく、しかも水源は城郭内に囲い込まれているため外部から断ち切られる心配がなく、籠城にも適した城であったと言えるだろう。
現に井戸の一部や地名としても井戸が多くあったことが確認できる。
(同書、80頁。)
・城下町と本城在番の制度
観音寺山の南山裾の地名を石寺(現:近江八幡市安土町石寺)というが、ここを中心として、かつて日本一と謳われ、織田信長よりも前の時代に先駆けて楽市を行っていた石寺の城下町が存在していたという。
この城下町の外側には先ほど紹介した水堀が張り巡らせており、その中に多くの町人が住んでいた。現在でもこの地域の民家は、いずれも古い城郭並みの石垣の上に建ち、当時の遺構を残しており、石寺や片原だけでなく東方に隣接する五個荘町清水鼻までの全域に渡ってこの形跡が見られるという。
また、ここに多くの人が住んだ証拠として、田中は観音寺城の在番制度を挙げている。
在番制度については、詳しくは解明されていないが、旗頭が交替で出仕し、定められた期間中、本城守備と諸役の勤務につく制度であるという。またこの交代制は「月毎」であったと推定している。
(同書、133頁。)
在番制度がもたらしたもの
加えて田中は、この在番制度がもたらしたものとして以下を挙げている。
(筆者の要約による。)
・家臣団の結束
・参勤交替の先例
佐々木氏は近江一国を治めていたことから、領地の諸豪族との連絡を密にするために自らの居城である観音寺城へ呼び寄せ、目の届く位置に置くと共に関係性が途切れないようにしたのだと思われる。
加えて田中は、この制度が徳川時代の参勤交替の先駆けとなった可能性について、藤堂高虎を引き合いに出して指摘している。
というのも、藤堂高虎という武将は徳川家康のお気に入りの外様大名であったが、もとは近江の武士で犬上郡の出身であり、佐々木氏京極氏の家臣であったという経歴をもっている。そして徳川幕府の参勤交替はその彼の献策によるものだとの説があり、これが正しいのだとすると、この制度は観音寺城の在番制度を模倣したものなのではないか、と考えられる訳である。
ただし、徳川幕府のものは大名から力を奪うことが目的であったが、佐々木氏のこれは平和安泰な関係を築くためのものであり、下克上の風潮があった最中にも、観音寺城には気配はさらさらなかったというので、両者の意図の違いには注意しなければならない。日本一国ともなれば、その数や規模は更に大きく、より統制が困難となるからであろう。
また田中は、観音寺城と石寺城下町の関係を江戸城と江戸の町に例え、その規模と構想において江戸の町の先駆けとなったのではないかという可能性についても若干の言及をしている。
(同書、97頁。)
次回に続く。