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【歴史】『江源武鑑』と田中政三③
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【歴史】『江源武鑑』と田中政三②|赤田の備忘録
沢田源内の系譜
さて、前記で見てきたように『江源武鑑』は偽書であると見なされ、またその著者として沢田源内は数々の批判を受けてきたことはすでに述べてきた。
この沢田源内は、高貴な人物に仕えたことや、その父も代官であったことなどから、建部賢明が言うような、身分の低い「土民の子」ではなかったと考えられるが、実際にはどのような家系の者であったのだろうか。
結論から述べれば、田中によると沢田源内は近江源氏の血流であるという。
その先祖は佐々木定綱の次男・定重を元祖とする、鏡氏の支流にあたる沢田氏で、もと堅田城主・澤田民部正を祖父として父は、沢田武兵衛と称した人物であった。
祖父の時、六角氏が没落のため浪人となり、親戚で佐々木政頼の三男・高成を元祖とする雄琴城主・和田家を頼って雄琴へ移住、名家として暮らしていたのだという。
〈系図〉
佐々木定重 ― (鏡)久綱 ― 定広 ― 定豪 ― 源豪
また、田中は観音寺城に存在していた「沢田曲輪」と「和田曲輪」が隣接して残っていることも参考にしている。
たしかに、以前の文章で観音寺城の城域は16筋に区分され、その中に山上筋が含まれていることを書いたが、そこに位置した曲輪は以下の通りであった。
伊庭出羽守、馬場伊予守、三井越後守、三井修理亮、三上越中守、国領信濃守、種村三河守、楢崎越前守、永原大炊頭、馬淵摂津守、沢田民部少輔、蒲生飛騨守、倉田典膳、和田維政、高宮三河守、三雲対馬守、小梅某、小藤某、松吉石見守、伊藤民部亟、小倉三河守
(同書、363-364頁。)
〈系図〉
和田定秀(和田山城主) ― 某 ― 高盛(和田城主)
― 某 ― 惟政 ― 秀純(雄琴城主)
和田氏については、始め神崎郡和田に住した佐々木定秀が和田山城主となり、その孫・高盛の時に甲賀郡和田に移住、和田城主となったという。そしてこの高盛には3子あり、長男が和田城主となり、三男・秀純は佐々木義秀の近臣となり、将軍を援けたことから志賀郡雄琴を賜り、雄琴城を築いたという。
つまり、観音寺城にある「和田曲輪」の主「和田惟政」とは、雄琴城主・和田秀純の兄の子供であるので、惟政の叔父にあたるのである。
また、堅田城については、佐々木氏の諸将について城名や城主を記した『江州佐々木南北諸氏帳』によると、「片田城主(堅田城主)」として
片田兵部少輔秀氏
山田民部丞忠宗
沢田兵庫宗永
の3城主名が記されており、「沢田兵庫宗永」という沢田姓の名前があることが確認できる。
また、この他にも米原市に残る「八講師城」という城跡の城主に、佐々木氏の家臣沢田民部大輔があったと伝えられており、その後に京極重臣の多賀氏が入城したという歴史が残っている。
こうして見てみると、和田氏と沢田氏の間に関係性があって、沢田源内がこの系譜に連なる近江源氏の一流であろうという考察についても、その可能性は有り得るかもしれない。
『江源武鑑』は沢田源内によって書かれたのか
何度かここまで述べてきたように、一般的には偽書とされる『江源武鑑』は「沢田源内」によって書かれたとされている。
しかし、田中はこれを否定し、以下のように批判している。
江源武鑑については、しばしば説明したように、従来史家のほとんどは、沢田源内が根も葉もない佐々木氏の歴史を捏造して書き上げた全くの偽書とばかり誤認してしまって少しの考察もしていない。
また、これを否定する根拠としては、『江源武鑑』の成立年と沢田源内の出生年の不一致を挙げている。
というのも、江源武鑑は江戸時代に、前後5回ほど出版されているが、これを沢田源内がゼロから生み出したとするには無理があるという。
『江源武鑑』の初版は1621(元和七)年のものであるが、沢田源内の出生年は『滋賀県百科事典』によると1619(元和五)年であり、沢田源内はまだ生まれてまもない頃なのである。
・ 滋賀県百科事典刊行会編『滋賀県百科事典』大和書房、1984年。
また出版された元和年間は、観音寺城が滅亡してからまだ三十年も過ぎていない時代であり、言い換えれば、佐々木氏に関する知識人も相当多く生き残っていたような時代に、決してうそのことなど書けなかったと思われるのである。
さらに、以前に紹介した建部賢明の『大系図評判遮中抄』や蒲生郡の郷土史である『蒲生郡志』を始めとするその他諸書において、沢田源内は佐々木氏系図の正系を義実、義秀、義郷、氏郷として、架空の人物を書き加え、しかも最後の人物は己、源内であると称していると記述しているという。
しかし田中は、「これも全くの虚構である。」とし、「明暦二年の版本にも絶対にそのような記述は認められない。すなわち佐々木氏郷と江源武鑑の著者とは明らかに別人なっている。」と断言している。
(同書、368-373頁。)
(同書、335-373頁参考。)
次回に続く。