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【歴史】六角・京極・浅井氏の歴史まとめ【近江国】
今年ももう終わりますね、ということで年内最後の投稿になります。次は年明け。今回はこれまでに見てきた六角・京極・浅井の三氏の歴史をまとめて編年体にしてみました。
↓単体での歴史は以下を参照。
【歴史】六角氏の歴史まとめ|赤田の備忘録
【歴史】京極氏の歴史まとめ|赤田の備忘録
【歴史】浅井氏の歴史まとめ|赤田の備忘録
・1215(建保三)年
浅井氏の確実な史料として、滋賀県長浜市の源昌寺本尊薬師如来背銘に浅井氏の名が記されている。また、1231(寛喜三)年の年号を持つ円満寺の古鐘銘にも浅井氏の名が見えることなどから、浅井氏は鎌倉時代よりこの地に勢力を持っていたことは疑いない。
・1243(寛元元)年
佐々木氏は幕府創業の功臣でもあったので西日本各国の守護を任され繁栄していた。佐々木氏当主・佐々木信綱の死後、所領の多くは三男・泰綱が継承したが、信綱の長男・重綱の訴えを幕府が受け入れ、泰綱は有した近江の所領の一部(坂田郡大原荘)を失った。その後、長男・重綱、次男・高信、四男・氏信はそれぞれ大原氏・高島氏・京極氏の祖となり、嫡流の三男・泰綱の家系は六角氏と呼ばれる。これらの庶流は鎌倉幕府に直接仕えたため、惣領家たる六角氏は家臣団化できず、六角氏の領国支配の障害となった。しかし、近江国守護職は六角氏が保持し続けた。鎌倉幕府の滅亡時は、当主・六角時信が六波羅探題に最後まで味方し、敗れ降伏している。その後、六角氏は建武政権にも参画していたが、足利尊氏が離反した後は、尊氏方と北朝についた。
鎌倉時代の京極氏は江北6郡の地頭であり、初代・京極氏信は鎌倉幕府の評定衆を務めた。跡を継いだ二代・宗綱は、幕府が朝廷に対し天皇の譲位を促した際の使者を務めている。
・1333(元弘)年
鎌倉時代末期に当主となった五代・京極高氏(佐々木道誉)は朝廷で検非違使、鎌倉幕府で御相伴衆を務めていたが、後醍醐天皇の綸旨を受けた足利尊氏が倒幕の兵を挙げるとそれに協力し、建武の新政に加わる。
・1335(建武二)年
しかし建武の新政は武士の支持を得られず、北条時行らが中先代の乱を起こして鎌倉を占拠すると、道誉は尊氏に従い討伐へと向かい、相模川で時行軍の背後を奇襲し、勝利に寄与する。尊氏が鎌倉に入り幕府設立の動きを見せ、朝廷が新田義貞を総大将とする尊氏の討伐軍を発すると、道誉は尊氏軍として義貞軍と矢作川で戦うが敗れ、手越河原の戦いでは弟・貞満も討たれ、いったんは義貞に下るが、次の箱根・竹ノ下の戦いでは尊氏方として戦い勝利する。
・1336(延元元/建武三)年
室町幕府が成立すると、六角氏庶流である京極氏の京極高氏(佐々木道誉)が近江守護に任じられたが、後に六角氏頼が近江守護に任じられ、以降は幕府と対立した一時期を除いて、六角氏が近江源氏佐々木氏嫡流として近江一国の守護の地位を占めた。
しかし、京極氏は出雲・飛騨の守護に代々任ぜられ繁栄し近江国内でも守護使不入(守護である六角氏の支配を受けない特権)を認められ、3代将軍足利義満の頃には四職となり幕府の要職について六角氏と対立した。
・1338(延元三/暦応元)年
後醍醐天皇らを吉野に追った足利尊氏が京都で持明院統(北朝)の光明天皇から征夷大将軍に任ぜられて室町幕府が開かれると、佐々木道誉は功績を評されて引付頭人、評定衆、政所執事、さらに近江・飛騨・出雲・若狭・上総・摂津の6カ国の守護を務めることとなる。
・1340(興国元/暦応三)年
佐々木道誉と長男・秀綱は、家臣が光厳上皇の弟である妙法院の御所の僧兵に殴打されたことを怒り、御所に火をかけて妙法院を延焼させる。延暦寺は朝廷と幕府に2人の死罪を求めるが、幕府はこれを放置した。延暦寺がさらに強く抗議を行った結果、2人は上総国山辺郡へ一時流されるが、その道中は道々で酒席を設け、宿々で美女をもてあそび、流人には見えなかったと言う。
・1348(正平三/貞和四)年
南北朝時代には幕府に従い大覚寺統(南朝)との戦いに参戦、四條畷の戦いで道誉は2,000余騎を率いて参じ楠木正行軍を撃退するが、その後の戦いで次男・秀宗(高橋秀宗)が討たれる。
・1353(正平八/文和二)年
侍所所司を務めていた秀綱が、京都を追われた後光厳天皇・足利義詮らを護衛している最中に討たれ、1362(正平十七/貞治元)年には摂津神崎橋の戦いで、秀綱の子・秀詮兄弟が討たれる。
道誉が亡くなると、家督は当初甲良氏を称していた三男・高秀が継ぎ六代当主となる。
・1379(天授五/康暦元)年
康暦の政変が起こると、京極高秀は美濃の土岐頼康、斯波義将と共に管領細川頼之の罷免を求めて近江で兵を挙げ、それを成し遂げる。高秀の嫡子である高詮は、父から継いだ飛騨の守護職に加え、1391(明徳二)年に山名氏が蜂起した明徳の乱での活躍により出雲と隠岐の守護職も任ぜられる。
七代・高詮の代に京極氏は四職の一つとなり、以後の当主は出雲・隠岐・飛騨の守護に代々任ぜられ、侍所所司を務めることとなる。また、高詮の弟・高久は近江尼子郷を分け与えられ有力庶子家となり、後の戦国大名尼子氏の始祖ともなる。もうひとりの弟である秀益は出雲宍道郷を分け与えられ有力庶子家となり、後の戦国大名宍道氏の始祖ともなる。
京極氏は、室町時代に近江国(江北地域)の半国守護であったとする説がある。
しかし、京極氏の古文書が納められた『佐々木文書』には出雲・隠岐・飛騨以外の守護補任に関する文書は確認できず、また室町幕府の記録からも六角氏が近江一国の守護であったことが確認できるため、この説が事実ではないことが判明する。
ただし、京極氏が江北地域に広大な所領を有してそれが守護不入扱いを受けていたこと、守護が利害関係者になっている所領が使節遵行の対象になった場合に隣国の守護が室町幕府よりその国の守護に代わって遵行を命じられるケースがあるが、近江国ではそのような場合には京極氏がその役を任せられるなど、守護に匹敵する待遇を与えられていたことも事実であった。一方、守護である六角氏の立場からすれば京極氏の存在によって近江一国の安定した統治の確立が不可能な状況に置かれており、六角・京極両氏の対立の要因となった。
また、国内の同族の中には高島氏・朽木氏・大原氏など奉公衆として幕府の直臣化される者もおり、彼らは幕府からの直接の命令を奉じて守護六角氏の命令には従わなかった。さらに領内には比叡山もあり室町時代を通じて六角氏の支配は安定せず、1445(文安二)年に六角満綱・持綱父子は家臣の反乱により自害に追いやられ、持綱の弟で後を継いだ六角久頼は京極持清との対立の末に心労により1456(康正二)年に自害して果てている。
・1458(長禄二)年
六角久頼の跡を継いだ六角高頼(亀寿丸)は、幕府の命により廃嫡され従兄・六角政堯が近江守護となったが、政堯は一族の伊庭氏との抗争により1460(長禄四)年に近江守護の座を高頼(亀寿丸)に返還させられた。
・1467(応仁元)年
京極氏の当主は八代・高光、九代・持高、十代・高数と続き、それぞれ侍所所司として室町時代に頻発した乱の鎮圧に当たる。高数の跡を継いだ十一代・持清は、1467(応仁元)年に生じた応仁の乱で、1万余騎を率いて東軍に属し京都で戦い、翌年からは近江で西軍・六角高頼と戦い優勢となり、1469(文明元)年六角高頼に代わって守護に任じられるがその最中に病死する。持清の長男・勝秀と次男・政光は既に亡くなっており、孫で勝秀の嫡子と考えられている孫童子丸が当主を継ぎ十二代となるが、わずか1年後に死去し、その跡を巡って勝秀の弟・政経と、勝秀の子・高清の間で争いが起きる(京極騒乱)。
はじめは政経が高清を近江から追放し、十三代となり、出雲・隠岐・飛騨の守護職を得るが、政経はその後の六角氏との戦いに敗れ、徴税の命令に従わなかった出雲、隠岐の守護代である尼子経久を追放するも、逆に出雲の拠点である月山富田城を奪い返されたと伝わる。
当主の座を得た十四代・高清は近江にあったが、その後継を巡って次男・高吉を推す高清らと、長男・高広(高延)を推す浅井亮政らの間で争いが生じ、高清は亮政らに敗れて追放され、高延が十五代となる。すぐに高清は亮政と和睦して江北へと戻るが、これを境に江北の支配権は浅井氏に奪われたと考えられている。ただし、一介の小国人に過ぎなかった浅井氏による江北支配も順調ではなく、なおしばらくは京極氏を名目上の守護と仰ぐ時代が続いた。
応仁・文明の乱が起こると、六角高頼は西軍に属した。六角氏の軍事指揮は重臣の山内政綱と伊庭貞隆が執った。乱中は、東軍方の近江守護となった京極持清・六角政堯と戦い、さらに美濃守護の土岐成頼や守護代斎藤妙椿と協力して敵対勢力にあたることもあった。
・1470(文明二)年
京極持清の病没により京極氏が分かれると(京極騒乱)、西軍に京極高清が加わるなど京極氏は混乱し、そのため、一時閉塞していた高頼は近江に勢力を伸ばした。1471(文明三)年には、高頼は清水城を落とし六角政堯を自害に追い込んだ。
京極高清(十四代)はこの内紛に勝利したものの、京極氏は弱体化し、京都にいることの多い高清に代わり江北を実質的に支配したのは高清の勝利に貢献した上坂家信だった。1521(大永元)年に家信が死去し、家信の子・上坂信光が跡を継いだが、信光も家信同様専横を強めた。1523(大永三)年、浅井亮政・浅見氏・三田村氏・堀氏・今井氏といった国衆は上坂信光と京極高清・高吉父子を尾張へ追い出した。浅見貞則を盟主とする国人一揆は京極高延(高清の子・高慶の兄)を新たな守護に擁立した。
しかし浅見貞則もまた専横を強めたため、大永4年末~5年初頃に、浅井亮政は京極高清を復帰させることで浅見貞則を失脚させた。
これにより亮政は国人一揆の盟主となったものの、江南の六角氏の度重なる侵攻に悩まされることとなる。他方で、六角氏という外敵に対し国人らが危機感を抱いたことで、浅井氏が上坂氏・浅見氏と同じ末路を辿らずに力を強めることに繋がったとする見解もある。なおこの時期から浅井氏と朝倉氏が同盟関係にあり、六角氏が小谷城を攻めた際に朝倉宗滴が浅井氏来援に訪れたとする話があるが、実際には六角氏に合力したものと現在では考えられている。
・1477(文明九)年
応仁の乱が収束すると、翌1478(文明十)年に高頼は幕府に帰参し、9代将軍・足利義尚により近江守護の座を与えられた。しかし、高頼は寺社や奉公衆の所領を押領したため、1487(長享元)年に足利義尚自ら率いる幕府軍の遠征が開始された(長享の乱)。
高頼は甲賀山中に逃亡したがそこでゲリラ戦を展開したため、戦線は膠着状態となった。足利義尚は近江守護の座を側近の結城尚豊に与え遠征を続行したが、1489(長享三)年、近江鈎の陣中で病死し遠征は中止された。
・1480-81(文明十二-三)年
戦国大名浅井氏に繋がる人物が現れる最古の史料は年ごろの『清水寺再興奉加帳』で、「江州浅井蔵人丞直種」の名がある。『江北記』によれば、浅井蔵人とは備前守(浅井亮政)の父である。『江北記』には京極氏の「根本当方被官」12氏として、今井氏、河毛氏、赤尾氏、安養寺氏、三田村氏らとともに浅井氏が列記されている。
・1490(延徳2二)年
土岐氏に庇護されていた足利義材(のち義稙)が10代将軍に就任し、六角高頼は赦免された。しかし、六角氏の内衆が寺社本所領の返還を拒絶したため、翌年4月に再び幕府軍の遠征が開始された(延徳の乱)。六角高頼は再び甲賀に逃れたが敗北を重ね伊勢でも北畠氏の軍勢に迎え撃たれて逃亡した。
・1492(明応元)年
足利義材は近江守護の座を六角政堯の遺児である六角虎千代に与え、12月に京に凱旋したが、直後の1493(明応二)年4月、河内遠征中に管領・細川政元が足利義高(のち義澄)を擁立し権力を失った(明応の政変)。
11代将軍となった足利義高は六角虎千代を廃し、山内就綱(佐々木小三郎)を近江守護に任じた。高頼はこの機に乗じて蜂起し、斎藤妙純らの支援を受けて山内就綱を京都に追い返し、1495(明応四)年、足利義高からの懐柔を受け近江守護に任じられた。
高頼は、細川政元と共に美濃で起こった船田合戦に介入し、翌1496(明応五)年に美濃斎藤氏・京極氏・朝倉氏による侵攻を受けたが、高頼は伊勢の軍勢や蒲生氏の支援を受けてこれを撃退し、斎藤妙純を討ち取った。
11代将軍・足利義高を擁立した細川政元らと敵対していた10代将軍・足利義材は、1498(明応七)年9月に越中から越前に移り、更に河内で兵を挙げた畠山尚順に呼応して1499(明応八)年11月に近江まで南下したが、高頼は坂本で足利義材の軍を奇襲し敗走させた。
・1508(永正五)年
大内義興の上洛により10代将軍・足利義材が復権すると、高頼は11代将軍・足利義高を庇護した。しかし1511(永正八)年、船岡山合戦で足利義高を擁立していた細川澄元が敗北すると足利義材に恭順した。その後、高頼は伊庭貞隆との対立に勝利し、六角氏の戦国大名化を成し遂げた。
・1534(天文三)年
浅井亮政は小谷の宿所で京極高清・高延父子を饗応する。それまで国人たちの筆頭にすぎなかった浅井氏は、この饗応を通じて、浅井氏が国人たちの上に立って京極氏を支える地位にあること、それが京極氏に公認されたものであることを、国人たちに痛感させた。
・1538(天文七)年
京極高清が死去したことで高延が跡を継ぎ十五代となるが、これを好機として京極高吉と六角定頼が手を結んで攻勢に出る。亮政は敗北し和議を結ぶが、今度はその内容に不満を抱いた高延が1541(天文十)年、亮政に対して反旗を翻す。1542(天文十一)年に亮政が死去したこともあり高延は勢いに乗り、亮政の跡を継いだ久政は1550(天文十九)年頃に高延と和議を結ぶ。
・1553(天文二十二)年
京極高延と浅井久政は江南に攻勢をかけるが、逆に六角義賢に敗北し浅井氏は六角氏に服属的な地位となったとされる。久政の嫡男・猿夜叉は義賢の偏諱を受け賢政を名乗り、六角氏重臣・平井定武の娘を娶った。
戦国時代中頃には六角定頼(高頼の次男)が登場した。定頼は第12代将軍・足利義晴(義高の子)や第13代将軍・足利義輝をたびたび庇護し、天文法華の乱の鎮圧にも関与した。近江蒲生郡観音寺城を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げたのみならず伊賀国や伊勢国の一部(北勢四十八家が支配する北伊勢地域)までにも影響力を及ぼしたとされ、六角氏の最盛期を創出し、阿波国から畿内に進出した三好氏と度々争った。
しかし定頼の死後、六角義賢の代においても、畿内の覇権を握った三好長慶と度々争ったが、1560(永禄三)年に野良田の戦いで浅井長政と戦って敗れるなど六角氏の勢力は陰りを見せ始める。
・1560(永禄三)年
浅井賢政は妻(平井氏の娘)を強制的に送り返し、強硬派家臣を率いて六角氏との決戦・野良田の戦いに臨み、六角義賢に大勝する。
浅井賢政(のち長政)の六角氏との断交を機に、京極高吉が復権を画策して六角氏と結び挙兵を企てるが、失敗して江北を追われ、京極氏の江北支配は完全に幕を閉じた。
浅井氏を六角氏から独立させると、久政は家臣たちから強制的に隠居させられ、浅井家当主の座には賢政こと、浅井長政が座ることになる。しかし、久政の政治的発言力が完全に失われたわけではなく、隠居後も彼は浅井家中において一定の発言力を有していたという。
・1563(永禄六)年
義賢の嫡男・六角義治(義弼)は家督を継いだ後、重臣の後藤賢豊父子を殺害したが、これを契機に家中で内紛(観音寺騒動)が起き、六角氏式目への署名を余儀なくされ、六角氏当主の権力は弱体化した。このように六角氏は六角義賢・義治父子の時代に大きく衰退し、1568(永禄十一)年、織田信長率いる上洛軍と戦って敗れ、居城である観音寺城を去ることになった(観音寺城の戦い)。
・1567(永禄十)年
浅井長政は美濃を支配した尾張国の織田信長と同盟を結び、信長の妹・お市の方を妻として迎えて、六角氏からの自立を図った。信長は将軍足利義昭を奉じて上洛し、義昭を通じて畿内や地方に影響力を強めており、信長との同盟は臣従的であったが対六角氏との関係では効果的に機能した。
・1570(元亀元)年
信長が浅井氏の同盟国である朝倉義景を攻めるべく越前に侵攻すると、家中には動揺が生じた。信長の朝倉侵攻に際して家中では織田と朝倉のどちらに味方するべきか意見が分かれるが、浅井久政や宿将の赤尾清綱らが親朝倉路線を主張したためか、同年4月には長政は信長との同盟を破棄し織田軍に背後から襲いかかっている(金ヶ崎の戦い)。これにより長政と信長の同盟関係は手切となり、以後両者は対立関係となる。同年6月には浅井・朝倉勢と織田勢との間で勃発した姉川の戦いにおいて敗退する。
その後、朝倉氏の他に摂津の三好氏や、六角氏など信長に圧迫されていた勢力も対抗姿勢を強める。元亀2年には信長と将軍義昭が敵対し、義昭は浅井・朝倉氏や本願寺など畿内勢力のほか甲斐国武田氏などの遠方勢力に呼びかけ信長包囲網を迎合するが、元亀4年に甲斐の武田信玄が三河・尾張への侵攻(西上作戦)中に病没すると、信長は反攻を強め、同年に信長は将軍義昭を京から追放する。
・1573(天正元)年
織田勢が浅井氏の本拠である小谷城へ侵攻すると(小谷城の戦い)、朝倉氏は小谷城への救援のため派兵するが織田勢に敗退し、滅亡する(一乗谷城の戦い)。小谷城において抗戦した長政・久政親子も自害し、浅井氏は滅亡した。
良いお年を!