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【歴史】赤田信濃守(源五)について

赤田信濃守(源五)

生没年:不明―1573(天正元)年9月26日
通称 :源五(源吾)
官位 :信濃守
諱  :姓?、信光?
戒名 :嶺雲院殿華渓宗春大居士

↓前回。
【歴史】赤田興について|赤田の備忘録

前回の「赤田興」以降の赤田氏の人物については、断片的なものが古記録や諸文献、伝承などに残るのみで、実のところよく分からない部分が多い。
以下では、史実的な信用性には疑問があるものの、興の弟、あるいは子とされる信濃守について紹介を行う。


・諱について
古記録によると、『豊郷村史』を始め、いくつかの書物には「」という諱が採用されている。嵯峨源氏の流れを汲むため一字名であることに疑問はないが、「姓」という名は他の渡辺氏においても、官見の限り実例は見当たらないし、この漢字を諱に用いるのかという所に違和感を覚える。

また、『江州佐々木南北諸士帳』や『江源武鑑』等の諸文献には同時期に「赤田信濃守信光」という人物が登場しており、これを「姓」と同一視しているものも見られる。

※ただし信光は「奥州藤原氏の門葉」とされており、源氏ではなく藤原氏の扱いである。


依然として諱を断定できるものはないが、「源五」という通称については、おそらく同一と思われる人物が1570(元亀元)年6月の古文書に登場している。

もと赤田氏家臣であった成宮氏の子孫の所蔵と思われるが、織田信長と浅井長政の合戦の時(佐和山籠城戦)、辺りの若者たちが赤田源五・赤田隼人佐に従って武功をたてたことで赤田家から「名字御免」の褒賞にあずかった、と記された古文書があり、そこには家臣たちの名前が複数見える。(→家臣については別記事で扱うことにする。)

年代的に考えると、ここに出てくる「赤田源五」が興の跡を継いだ「信濃守」と呼ばれる人物であろうか。


・姉川の戦いでの活躍
信濃守が活躍した戦に同年の姉川の戦いがある。ここでは、磯野丹波守・高宮三河守・大宇大和守・山崎源太左衛門・蓮台寺主膳正・和田傳内らと共に先陣として敵陣に掛かったというが、信濃守は「菖蒲の指物」をし「赤田家相伝の黒旗」を靡かせて火花を散らして戦ったと、その奮戦ぶりが記されている。また諸文献を見ると、赤田氏は総数194首を討ち取り、家臣の澤井大介というものが、坂井政尚の甥・坂井十兵衛というものを討ち取ったことが記録されている。

また後に、豊臣秀吉に信濃守の子とされる・堅が五千石をもって召し抱えられたというが、それはこの姉川での赤田信濃守の活躍ぶりに目を見張るものがあったからであるという。


・小谷城の戦い
浅井長政が織田信長との同盟を破棄したために、浅井氏は攻められ滅亡することになる。小谷城での戦いは、浅井三姉妹などドラマ・漫画などの諸作品に頻繁に取り上げられるので有名であるが、赤田信濃守について詳しく記したものはない。諸記録では、この時に浅井家と命運を共にして討死したとされている。

(没年月日は、小谷城の戦いから約一か月後の日付であるが旧暦・西暦の誤差であろうか。)

その後は、嫡子・堅が家督を継いだようである。


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