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今度とか、いつかとか、そのうちとか。
「また今度にすればいいじゃない。」
「またの機会があるよ。」
「そういうのは、歳を取ってからでもできるから。」
私の母(70代前半)は、よくそんなことを言う。
確かに、呑気で楽天的な気質の人ではある。でもこの呑気さは、事あるごとに「また今度」「いつか」「そのうち」を口にするのは、性格的なものだけではない気がする。
昭和28年、戦後生まれ。高度経済成長の時代に青春を過ごし、バブルの時代に子育てをした。1995年に阪神・淡路大震災が起こるまでは、何千人、何万人という人が亡くなる大災害を経験したこともなかった。
安定した時代の人なのである。
母だけではない。私達の世代から見た「大人」達はよく言った。また今度、頑張ればいいじゃないか。チャンスは何回だってある。そのうち、何とかなるさ。
私達はそうは思わない。やりたいことは、今やらなきゃ。推しは、推せるうちに推せ。一度先延ばしにしたら、きっと二度とやらない。そういう人がとても多い。
子供の頃、若い頃、何千人何万人の命が一瞬で失われる大災害を何度も見てきたからかも知れない。
「今度」は、「明日」は「そのうち」は、来ないかもしれない。私自身、いつだってそういう危機感がある。ましてや「老後」なんて。そんなものは存在しないかもしれない。
豊かで穏やかな「定年後」や「老後」を明確に想像できた私の親の世代は、幸せだったんだと言わざるを得ない。
母は「ひ孫の顔見るまで頑張らなきゃね!」と自分の姉と話していた。当たり前に80、90まで生きてひ孫にも恵まれると思っている。
私の感覚から言わせると、そういう想像が出来るということ自体が不思議だ。
今、これを書いている1秒後にいきなりドーン!と揺れがやってくるかもしれない。家が倒壊して、潰されてしまうかもしれない。
自分や家族の命は助かったとしても、家が燃えたり住めなくなったりするかもしれない。大事にしていた猫も、ぬいぐるみも、写真も、助け出せないかもしれない。そんなことになったら立ち直れず、自ら死を選ぶかもしれない。
人生、一寸先は闇。
13年前のあの日以来、いつも頭の片隅にそんな考えがある。
13年間、安心したことなど一度足りともないのかもしれない。
5年前の春、ラジオで偶然耳にして「今度アルバム聴こう」と思った音楽を生み出した人はその僅か9日後に亡くなってしまった。
その後本当にアルバムを聴いて彼とそのバンドの大ファンになったが、彼がステージ中央に立つライブを観たことがない。
4人のヒトリエのライブを観たことがない。
「今度」も「また」も、「そのうち」も無かったのだ。
また今度は、そのうちは、明日は無いかもしれない。多分、この先もそう考えて生きていくのだと思う。仕方ない。そう考えざるを得ない時代に生まれてきた。
あれから13年。
「忘れない」とメディアは繰り返す。だけど私は正直に言って、もう忘れたいなと思っている。
毎年、毎年あの記憶が蘇る。本震の時の、車ごとトランポリンで飛んでいるような揺れ。家の前に垂れ下がった電線と、傾いた電柱。落ちて壊れた時計。めちゃくちゃになった部屋。
何度も何度も鳴り響く緊急地震速報。大きな余震。本震の後、北の真っ黒な空に出ていた変な雲。テレビに映る、燃えている気仙沼の街。
眠れなかった夜。朝が来て有難いと思ったのも束の間、今度は福島の原発が危ないと言っている。
「忘れない」じゃねえよ。毎年毎年、この時期になると蘇ってきて、何だか知らないけど具合が悪くなってくるんだよ。
今日も突然変な冷や汗びっしょりかいたよ。何でだかわかんないけど。
また今度があるよ。そのうちやればいいじゃない。きっとそのうち、いいことがあるよ。
いいなあ、そんな風に考えられる人達は。
私は今日も、これから先今度はどんな最悪なことが起こるんだろうなって考えてしまうよ。3月11日。
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