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戦争と平和

 私が子供の頃、毎年ある時期になると「中国残留孤児」と呼ばれた人達が中国から生みの親や血を分けたきょうだいを捜しに来ていた。
 多くは幼い頃、終戦の混乱の中で親きょうだいとはぐれ、中国の地に取り残された人だった。

 その季節になるとNHKでは「来日している中国残留孤児の方々です。ご親族の方、お心当たりの方は連絡して下さい」という主旨のテレビ放送があったような記憶もある。
 白黒の古い写真が映し出され「◯ ◯◯さん(中国名)、◯才の時に旧満州国、現在の黒竜江省◯◯市で家族とはぐれました。体のこの部分にアザ、傷跡があります」というような、身元の特定に繋がりそうな情報が淡々とアナウンスされていた。
 何だか怖かったので印象にある。知らない世代の人にあの番組のあの感じをどう伝えたらいいのか迷うところだが、ニュアンス的には「物凄く暗い政見放送みたいな雰囲気」とでも言えばいいのか。
 BGMも演出も一切何もなく、静止画かつ暗い色調と棒読みのアナウンスの中、古い白黒写真が映し出されるので異様なのだ。
 子供にとっては「本当にあった怖い話」を見せられているような、夢に出そうな、そんな恐ろしさがあった。

 新聞にもこの季節になると一面を丸々割いて「中国残留孤児の方々」という記事が組まれていた。
 やはり白黒の古い写真、中国名、日本の家族とはぐれた場所、身体的な特徴、◯◯という中国人の養父母に育てられたとか、そんなような情報が。連絡先として政府が設置した電話番号が書かれていたような記憶もある。

 終戦の混乱の中で家族とはぐれた当時、ある程度の年齢に達していた人の中には自分の日本名や家族の名前を記憶している人もいた気がするが、年々日本のことを、自分の日本の家族のことを憶えている元孤児の方は減っていった。
 「引き揚げの混乱の中で日本の母親が赤ん坊の私を中国人の夫婦=中国の養親に託したと養親から聞いた」とか、そんなようなぼんやりした証言が年々増え、日本の家族を見つけられないまま帰国する人が増え。
 来日して親族を探す元孤児の方の数自体が年々減っていった。

 日本語を話せる人はほぼいなかったような記憶もある。
 出で立ちも、パッと見中国の人。今の時代の観光でやって来てワアワア喋りながら免税品を爆買いする中国人のイメージではなく、男性は質素なワイシャツとズボンを着ていて、歯の治療もあまり行き届いていない様子の。天安門広場の前を大挙して自転車ばかりが行き交っていた時代の、中国の人。

 気が付いた頃には「中国残留孤児の方々」というテレビ番組や新聞記事はなくなっていた。
 終戦当時赤ん坊だった人も、今では79歳。これから帰国し、頑張って日本での生活に馴染もうという人は殆どいないだろう。親も、もしかしたら自分のことを知る親類ももう居ないかもしれない。
 中国が経済的に豊かになったことも無関係ではないのかもしれない。

 「風化」という言葉が好きではないのだが、こういうことなのかなと思う。気が付いたら、なくなっていた。そんなことがあったということも忘れていた。

 10代、20代の人と話をすると親が私と同じくらいの年齢だ、というケースも少なくない。そして祖父母は戦後生まれ、という人が殆どだ。
 と、いうことは。戦争を経験した人の話を聞いたことがあるとか、或いは上述したような「昔戦争で孤児になった人達の親族を捜索する番組や記事があった」という記憶がある人も減っているのではないか。

 そんなわけで亡くなった祖母から聞いた話や、親から聞いた祖父の話を書き記すことにした。



 私の祖父母は戦争の話をしたがらない人達だった。
 小学校の頃、夏休みの宿題の一つとして「おじいさんおばあさんから戦争の話を聞きましょう」というのがあったので母の実家に帰省した際、祖父母に「戦争の話をして」と頼んだことがある。だが、祖父も祖母も決して口を開かなかった。
 振り返りたくなかったのか、それとも孫に戦争の話などしたくなかったのか。今となってはもう、知る術もない。

 母方の祖父は酔うと自慢気に軍人時代の武勇伝を語る人だったらしいが、私は祖父の口から直接戦争の話を聞いたことがない。

 子供の頃の母はよく酔った祖父の武勇伝や自慢話を聞かされたらしく、うんざりしたと言っていた。父もやはり母の実家を訪れると祖父の晩酌に付き合わされ、軍隊でビルマに行っていた時の武勇伝だの自慢話だのに延々付き合わされたらしく。
 内容は同じ部隊の人を殴って目玉が飛び出る程の大怪我を負わせ軍法会議にかけられたとか、昭和天皇にお目通りしたとか。
 だが、祖父のこれらの武勇伝はどうやら怪しげなものだと私は考えている。きっかけは半藤一利氏が生前、NHKのインタビューで話していたのを見たことだ。

 生涯を懸けて「あの戦争」を研究し続けた半藤氏が、元軍人に聞き取りを行うと武勇伝や自慢話が出るわ出るわだったらしいのだ。だが、それを実際に起こった出来事の日時や場所と照合すると、齟齬が生じるという。どう考えても起こり得ない。あり得ない。そんなことが殆どだったという。
 元軍人は、自分のやったことを正当化したい。そうでもしないと自分が生きてきた人生が否定され、自分が生き残ったことも否定しなくてはならなくなる。それで所謂「話を盛る」「話をでかくする」傾向があるのではないか、と半藤氏は分析していた。
 物凄く納得が行った。説得力があった。

 よくよく考えてみよう。仲間を殴って失明させるような大怪我を負わせ軍法会議にかけられたならば、何故祖父は生きて戦地から戻ってこられたのか。
 これは歴史オタクである私の父の論理なのだが、末端の衛生兵であった祖父が昭和天皇へのお目通りなど叶うはずがないと。
 これも大いに納得が行く。戦前・戦中の天皇は、私達がイメージするにこやかにお手を振って応えて下さるような、家族をご自分のカメラで撮影し笑顔を見せて下さるような親しみやすい存在ではなかったはずなのだ。

 秋田のおじいちゃんには悪いが、酔っ払ったおじいちゃんの話は半分以上ウソだったのだろうと私は考えている。だって、素面の時は私が「戦争の話をして」と頼んでも、何一つ話してくれなかったのだから。
 本当だったのは母が目撃したという、寄せ書きが施された血染めの日の丸の旗。ビルマに衛生兵として行っていたが、怪我だか病気だかで除隊になり帰ってきたという事実。
 「左太腿に銃弾を受けた」という話もあったにはあったが、銃弾だったのか別の怪我だったのか…。話を盛って銃弾だということにしていた可能性はある。が、確かに左脚を庇うように動いてはいた。

 腕の良い畳職人かつ地域の有力者ではあったが気性が荒くて扱いづらい、恐い爺さんだった。
 葬式でうちの父が誰だか知らない近所の人に「やい!お前は死んだ爺さんちの婿か!俺はあの爺さんに山程恨みがあるんだ!」と絡まれたらしい。
 祖父は私が中学1年の時、愛車の黒い中型バイクで出掛けようとしたところ、家の前の道路で暴走車に突っ込まれて即死してしまった。77歳だった。
 最期まで豪快な爺さんだった。

 戦争から帰ってきてすぐの祖父は人が変わり「おっかなくて声をかけられなかった」らしい。これは祖母による話だ。
 もしかすると戦争体験のせいで人が変わり、あんなおっかない人になってしまったのかも知れない。母も、伯母たちも戦争に行く前の祖父を知らない。
 戦地であまりに過酷な体験をし、どうにかこうにか生きて帰ってきたことに間違いは無さそうだ。

 これが「直接話を聞くことが出来ない」ということなのだなと書き出してみて実感する。
 「〜だったらしい」「〜と聞いた」「〜のようだ」といった、曖昧でボンヤリした具合の書き方しか出来ない。



 13年前に91歳で亡くなった母方の祖母は、晩年になってようやく戦争について、ほんの少しだけ話してくれた。
 本当に印象的だったのは遊びに行った時、庭で日向ぼっこをしながらおしゃべりをしていたら急に

 「戦争が終わった時はどうなることかと思ったが…お陰様でここまで生きてくることが出来た」

 と話してくれたことだ。これは物凄く衝撃的で、鮮明に憶えている。
 何が衝撃って「戦争終わってホッとしたじゃないんだ…」という点である。「戦争が終わってどうなることかと思った」だったのだ。

 「どうなることか」の中身が何だったのかはわからない。よく朝ドラで描かれる食糧や物資の不足のことだったのか、それとも「アメリカの兵士がやって来て辱められ殺される」という恐怖だったのか。それとも戦地から帰ってきた夫の人間が変わってしまっていたことだったのか。或いは、その全てだったのか。
 なんでどうなることかと思ったの?と何故聞かなかったあの時の私!バカァー!と今となっては後悔が残る。
 これもまた「今となっては確かめる術がない」。

 もう一つ、祖母の晩年のエピソードがある。
 祖母の家の台所には皇居の二重橋の写真が印刷された楕円形の昭和なおぼんがあり、それに興味を惹かれた私は「ねえおばあちゃん、これなあに」とおぼんを手に、何気なく祖母に問いかけたのだ。
 するといつも至極マイペースで人の話などあまり聞いていない祖母がカッと目を見開き、突然興奮した様子でそのおぼんについて、すごい勢いで語り始めたのである。

 それは祖母が地域の婦人会で皇居の清掃活動をする為に上京し、清掃を終えた際に貰った記念品だった。勿論戦後の、平和が戻ってからの話である。
 皇居を清掃出来るというのはとにかく名誉なことだったらしい。確かにそうかもな、と思う。普通東御苑とか、花の季節の乾通りとか、新年の一般参賀の時しか入れないもんな。

 清掃活動を終えて一同整列したら、何と昭和天皇と香淳皇后がお出ましになって「ありがとう」と…祖母はとにかく興奮した様子で話していた。恐れ多く、夢のようだったと。
 前述のようにいつもマイペースを崩さずローテンションだった祖母が、あれ程興奮して話してくれたのは後にも先にもあれ一度だった気がする。

 何故この話を書いたかと言うと、昭和天皇に会ったと話を盛った(と私は考えている)祖父と通じるものがあると感じたからだ。
 戦争の時代を経験した人達にとって昭和天皇というのは特別で、特殊な存在だったのだろう。
 今の時代に置き換えて考えることは難しい。「ファン」とか「推し」とかいう、そんなノリではなかった。
 祖母は生涯、上皇さまのことを「皇太子さま」と呼んでいた。祖母にとっての天皇陛下は、ずっと昭和天皇だったのだろう。

 気性が荒かった祖父と対照的に、祖母は穏やかな人だった。
 健康で矍鑠としていたが晩年は公立の施設で暮らし、毎朝新聞と女性週刊誌に目を通していた。女性週刊誌を読んでいた理由はやはり、皇室に興味があったから。
 眠るように、とはよく言うが、本当に就寝中に亡くなってしまったので「自分が死んだことに気が付いていないんじゃないか」とみんな口々に言った。
 施設の職員さんが「本当にいい人だったから寂しくてね…」と言ってくれたのが印象に残っている。
 死に様までやっぱり、祖父とは対照的な人だった。



 国鉄職員だった父方の祖父は私が生まれた時既に寝たきりで話すことが出来ず、私が小学校2年生の時に亡くなった。そして父方の祖母から戦争の話を聞いたことは一度もない。

 父方の祖父は戦時中、鉄道敷設の為満州へ行っていたという。これも祖父本人から話を聞くことは叶わなかったので、父から伝え聞いた話だ。

 ノモンハン事件の時も満州にいたというのだから驚きだ。これについては「現場に居合わせた」とかそういうでかい話ではないので、新潟のおじいちゃんは正直者だったのだと思われる。
 あくまで鉄道員で軍人ではなかった、という事情も関係しているのだと思う。

 父方の祖父が軍隊に召集されたという話は聞いたことがない。何故なのかはわからない。鉄道というインフラを守る仕事をしていたからなのか、それとも徴兵検査で引っかかって不合格になったとかだったのか。これについては父が元気なうちに聞いておこうと思う。

 祖父は酒も殆ど飲まず、寡黙で滅多に喋らない人だったという。
 その祖父が息子である父が帰郷した際、地酒を飲みながら戦争の話をしてくれたのだという。そして、こう呟いたというのだ。

 「また満州に行きたいなあ…」

 若かった父は驚いたという。何で!?戦争で行ってたのに!?気候も厳しいらしいじゃないか。何で?
 すると、祖父はこう答えたのだという。とにかく何もないんだ。見渡す限り何もなくて、広いんだ。地平線しか見えないんだ。あの景色を、もう一度見てみたいなあ…。

 高い山が聳え迫る新潟で生まれ育った祖父にとって、地平線しか見えない果てしない景色はカルチャーショックだったのかも知れない。
 そしてやはり、鉄道員として行っていたという面は大きかったのではないか。軍人だった母方の祖父とは事情が違う。

 父方の祖父は、終戦前に帰国している。これがもし終戦まで満州に居たとしたら引き揚げ船に乗って命からがら引き揚げて来たか、はたまたシベリア抑留か。最悪死んでしまったかも知れない。
 終戦前に帰って来たからもう一度中国の土を踏みたいと言えたのだろうし、私も今ここに存在している訳である。

 結局、祖父はもう一度大陸の壮大な地平線を目にすることはなく。既に定年になっていたのに大雪の日、線路の復旧作業を手伝って冷え切った体で帰ってきて、熱燗をグーッと飲んだ後風呂に入ってしまったのがいけなかった。
 脳卒中で倒れ寝たきりになり、言葉も話せなくなってしまった。私が生まれる、5ヶ月前の話。

 私が通っていた幼稚園の近くの病院に入院していたことがあり、毎日帰りに会いに行っていた。

 「お義父さん、どうですか?調子は」
「友吉さんよかったねえ、お孫さんが来てくれて」

 そう言う母や看護婦さんの声や、母に病院内の自販機でジョアを買ってもらったことなどを覚えている。
 私達が行くとおじいちゃん何となく嬉しそうだなあとは思っていた。

 若い頃は貨物列車に乗っていて、山形の鶴岡の方とかまで行っていたらしい。
 子ども達に「明日の何時頃、踏切を通りかかるからね。見に来なさい」と言って、父達がきょうだい揃って会いに行くと汽車から手を振ってくれたそうだ。
 私が鉄道好きで貨物好きなのは、祖父の血なのかもしれない。国鉄レトロな列車やヘッドマークに惹かれるのも。

 祖父は70歳で亡くなった。葬式で父が涙ぐんで「◯◯(私の叔父)の結婚式までよく頑張ったね」と棺の中の祖父に声をかけていたことをよく覚えている。

 父は、母である祖母のことがあまり好きではなかった。確かに陰気で、いつも苦虫を噛み潰したような顔をしている難しい人だった。要するに父や私は祖母に似ているのだが…。
 反面祖父については前述の貨物列車のことなど、楽しい思い出を語る。大糸線回りで富士山に連れて行ってもらい、一緒に登ったとか。
 伯母が高校時代、通学の列車で痴漢に遭った時「こんなの狙う風変わりな痴漢もいるんだな」と姉の痴漢被害を父が茶化したところ、普段静かな祖父が烈火の如く怒ったのだという。翌日、祖父は伯母と一緒に列車に乗り通学に付き添ったそうだ。
 無口で寡黙だが、優しい人だったのだろう。話してみたかったなと、今でも思う。



 と、ここまで散々身内の戦争にまつわる話を書いておいて何なのだが、もし「戦争について知りたい」と思っている若い人達がいたら、ぜひとも語り部として戦争体験を語り継いでいる、信用のおける戦争体験者の方の話を今のうちに聞いておいてほしい。出来れば、動画に残しておいてほしい。

 何故ならうちの祖父は父方母方とも、酒に酔った状態で戦争の話をしていたからである。実のところ、語った話にどこまで信憑性があり、どこまでが信用に値する話なのか定かではないのだ。
 なので自治体や団体などからきちんと役割を与えられ、シラフの状態で真剣に戦争体験を語ってくれる人の話を今のうちに、出来ればより年の若い人達が確と聞いておいてくれれば、と願っている。そして重ね重ねになるが、話を聞く機会があればその話を動画なり書き起こしなりで記録しておいてほしいのだ。
 私ももしそのような機会があれば、話を聞きに行きたいと思う。

 何故、うちの祖父達は酒に酔った状態でしか戦争の話をしてくれなかったのか。それは最近笑い草になっている「ヤバい昭和」と関係があるのだと考えている。
 男は、あまりベラベラと喋るものじゃない。男は黙って、だ。男が喋る時は、酒をちびりちびり飲みながら。ぽつり、ぽつりとだ。
 そんな高倉健みたいな、演歌みたいな時代の人達だったからかも知れない。これもまた、昭和の弊害だ。私はそう考えている。

 昭和は笑い話ではなく、本当にヤバい時代だったのだ。だって、戦争があった時代なのだから。
 若い人達が軍隊に取られ、みんなが飢えに苦しみ、空襲や原爆で街が焼け野原になり、数え切れない人が死に追いやられた。それだけでどう考えてもヤバい時代。
 それを「昭和はよかった」「昭和は輝いていた」「昭和をもう一度」なんて美化している方がおかしい。
 これは主に、戦争が終わった後に生まれ高度成長とバブルを謳歌した私の父母の世代がやってきたことだ。生きているうちに、大いに反省してもらいたい。

 夏が終わる前に、8月が終わる前に書き上げてnoteに上げておこうと思った。日付が変わって、9月になってしまったけれど。

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鴎
photography,illustration,text,etc. Autism Spectrum Disorder(ASD)