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スポーツってそんなにえらいのか

 まる子の声を長年務めていたTARAKOさんが亡くなってしまった。
 私は小学生の頃からちびまる子ちゃんが大好きで、今も原作単行本の殆どを持っている。原作を読む時も、まる子の台詞はTARAKOさんの声で脳内再生される。

 前日に『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』の作者である鳥山明先生が亡くなったこともあり、夜7時からのテレビニュースを見ていた。
 そこであることに気がついた。

 「あれっ…そういえばテレビのニュースって、毎日必ずスポーツコーナーがあるのにカルチャー(文化)のコーナーって無いんだな…」

 当たり前と言えば当たり前のように長年そうして続いてきたので、これまで気に留めることもなかった。鳥山先生と、TARAKOさんが相次いで亡くなったことが大きなニュースとして報じられるまでは。
 もっと早く気付けよ、と自分でも自分に対して思う。
 子供の頃からあまりにも当たり前のように番組の構成がそうなっていたものだから、何の疑問も持たなかった。



 「スポーツができる子が一番偉い」

 私の子供の頃は、誰がそう言うわけでも無いのにそんな空気が出来上がっていた。
 足が速い子が一番偉い。野球ができる子が一番偉い。通知表の体育が5の子が一番偉い。
 勉強ができるとか、字がきれいとか、絵が描けるとか、そういった能力は「スポーツができる」に比べたら価値のないものだった。とにかく運動能力。身体能力。

 年齢が、学年が上がるに従ってその傾向は顕著になっていく。今で言う「カースト」が出来上がっていく。
 球技ができる子というのはカースト上位へ押し上げられ、男子の場合は特にその傾向が顕著だった。部活でいえば野球部とサッカー部がとにかく偉い。
 男子でピアノやヴァイオリンを習ってるとか、吹奏楽部だ演劇部だというのはもう、悲惨だ。「男のくせにひ弱で気持ち悪い」という見られ方をしていた。
 今だったら「男のくせにとか女のくせにとかヤバい、昭和なんだけど」という話になる。そう、平成の初頭はまだ昭和の一部だった。

 女子でカーストが高いのは何といってもテニス部。理由は単純明快で、ユニフォームがスカートだから。かわいくて女らしいから。今となってはジェンダーの観点的にダメなやつ。
 とにかく、男女ともに球技ができると偉いのである。今考えても謎だ。

 私は半年間だけバレーボール部にいたがとにかく体が弱くて怪我ばかりしてすぐ退部したので、バレー部が偉かったというイメージは無い。球技の中では当時、人気が低迷していたこともあって地味な方だったんじゃないかと思う。

 体が弱いのに何故運動部に入ったかというと、当時は「運動部に入らないと部活をする意味がない」という風潮があったからだ。
 私の友達でもやはり同じ理由で無理をして運動部に入り、激しい練習で病が悪化して今も体調不良に悩んでいる人がいる。
 部活で負った怪我や病気に苦しみ続けている人は、結構多いんじゃないかと考えている。体力作り、健康作りが聞いて呆れるような無謀で非科学的なトレーニングが普通に行われていたからだ。

 私は絵を描くのが好きだったので美術部に入ることも考えたが、そのことを友達に話すと「成績下がるよ」「内申下がるよ」「軽蔑されるよ」「高校行けなくなるよ」などという世にも恐ろしいことばかり言われたので入部をやめたのだ。
 実際にはそんなことなど無かったのだろうが、当時の文化部というのはそれくらい地位が低かった。
 吹奏楽部以外の文化部は底辺。暗くて、気持ち悪い奴らが入る部活。ごく当たり前のようにそう言われていた。

 ちなみに私の行っていた中学は生徒全員、何らかの部に入部することが義務付けられていた。今では問題となっている「部活強制入部」。
 おわかりだろうか。スポーツの才能が無く、運動部に入部できない人間には人権が無かったのである。

 不登校になる男子は圧倒的に文化部所属だった。「男のくせに演劇部」「男のくせにパソコン部」などといういじめの温床になったからだ。
 スポーツができなくて、底辺に沈んだ者は泣き寝入りするしかない。何故なら、スポーツができる者がどうやったって一番偉いからだ。

 野球部やサッカー部のエースは、中2や中3になるとクラスで一番美人でおしゃれな女子と付き合い始める。そういうコースが大体決まっていた。
 部活で活躍したやつは勉強しなくても高校に入れたし、順調に高校でも部活で成果を上げればやはり勉強なんかせずとも大学への推薦も得られ、大学でも活躍するとそのまま就職まで約束される。
 こういうシステムが、最近問題になっている高校や大学スポーツの不祥事を誘引したのだと思う。根底にあるのはやはり「スポーツができるやつが、一番偉い」。

 なんか、ダサい。
 すごく昔の映画を観てるみたいだ。

 最近よく「ヤバい昭和」がネタにされているが、ヤバいどころか最早「怖い昭和」が私が子供の頃はまだ生きていた。平成10年くらいまでは世の中にまだ昭和の空気が色濃く漂っていたと記憶している。
 例えば怪我をしているのに無理をして体育の授業や体育祭に出ると褒め称えられた。今では考えられないが、体調が悪いのに無理をして登校すると「めざせ皆勤賞」と喝采を浴びた。玉砕という、あの思想の名残だ。
 戦争や、軍隊の影がまだ生きていた。だから昭和はヤバいし怖いのだ。



 テレビのニュースにカルチャーコーナーが無く、毎日欠かさずスポーツコーナーだけがあるのはこの名残なのだろう。
 「スポーツができる人間が一番偉いのだ」という空気だった、あの時代のあの感覚のままの作り手がテレビ局の中にいるということではないか。

 実際、昔は野球、サッカー、オリンピックをはじめとしたスポーツが国民的な関心の的だった。
 私自身、お風呂から上がってテレビをつけ、一日の終わりにフジテレビでやっていた『プロ野球ニュース』や『すぽると!』という、スポーツに特化したニュース番組を見ていた。

 長野冬季オリンピックも「これを見に行かないと君達が生きているうちにオリンピックが日本に来ることはない」などという触れ込みを信じて観に行った。これは結果的にとてもいい体験だった。その23年後にとんでもなく盛り上がらない夏季オリンピックが東京で開催されたので、そういう意味でも長野を観に行っておいてよかったんだと思う。

 一番強烈な記憶はやはり2002年の日韓共催サッカーワールドカップだと思う。なんかもう一々説明するのも面倒なので、どれくらい異常な盛り上がりを見せたのかはYouTubeやWikipediaで各自調べて頂きたいと思う。
 とにかく私も含め「お前サッカーやってないだろ」って人がみんな日本代表の青いユニフォームを着ていた。渋谷のスクランブル交差点に人が大挙して集まって大騒ぎする文化が生まれたのもこの時だ。なので、渋谷式ハロウィンの原型ともいえる。
 特段何かの競技に打ち込んでいるわけでもない、スポーツの才能があるわけでもない素人も平成の途中まではスポーツに熱狂していたのだ。



 いつ、どこで潮目が変わったんだろう。いつから人々は、特に若い人達はスポーツにあまり関心を持たなくなったんだろう。

 緩やかに、徐々にスポーツに対する関心が失われていった気はするが、やはり3年前の「恐ろしく盛り上がらなかった東京オリンピック」が決定的な契機だった気がする。
 これも細かくあれやこれや振り返るのは面倒なので省くが、とにかくみんなが自粛だ、3密回避だ、ソーシャルディスタンスだ何だかんだと生活や娯楽に制限を受け、医療も逼迫しピリピリと暮らしている中で、最早誰の為なんだか全く不明なお祭りを中途半端な形で開いてしまったのが致命傷だったのだと思う。
 しかも'90年代サブカルノスタルジーみたいな開閉会式のディレクターやキャストは過去の「不適切」な言動や行動が元で次々降板し、終わった後に汚職で大会関係者が次々逮捕された。なんかもう、最悪だ。

 ごく少数の選ばれしアスリートと大多数の凡人の間に溝と亀裂が生まれ「スポーツ」は分断されてしまった。
 「ごく少数の選ばれし」という発想はまさに、私が子供の頃の「スポーツができる子は偉い」という風潮の延長線上にあるものだ。

 アスリートのコメントも何だか「コンプライアンス」を意識したんだか何なんだか「国民の皆さんに夢と希望を与えたいと思います」みたいな、つまんなくて余計なお世話系の言葉を並べ立てたものが多かった。
 私はこういうのを「羽生結弦構文」と勝手に名付けている。羽生くんみたいな優等生発言をしておけばまず間違いない、というのがあの人の出現以来、スポーツ界に浸透してしまったのだろう。
 ああ、今の選手達って「チョー気持ちいい!」とか絶対言っちゃいけないって上からきつく言われてるんだろうなあ…とも感じたものだった。

 これはスポーツ界に限ったことではないが、生きた言葉というのは伝わるもんなのだ。
 カタールW杯の時の「ブラボー!」だったり、WBCの時の「憧れるのをやめましょう」はある程度伝わった。生きた言葉だったからだ。
 「国民の皆さんに夢と希望を」なんて定型文は死んだ言葉だ。だから伝わらない。

 ああいう人達ってさ、特別だよね。自分達には関係ない。そういう、冷めた目で若い人達は「スポーツ」や「アスリート」を見ているような印象を受ける。
 そりゃそうだ。今は「普通に遊んでいる中で才能を見出されて、プロになってスターになった」というアスリートは殆どいない。
 例えば日本代表に入るようなサッカー選手の場合は小さい頃からJリーグや、もっと言うと久保建英のようにバルセロナなんかの下部組織に入って、幼少期からスーパーエリートとして手厚く訓練され養成されて行く。私だって「まあ、なんか自分とは違う世界の人だよね」と思うし「お金のある家の子じゃないと無理だよね」とも思ってしまう。
 『ブルーロック』はとてもよくできたマンガだ。日本代表のストライカー候補を監獄に閉じ込めて養成し、容赦無く振り落として行く。あながちあり得ない話とも言えない。

 人とまともにコミュニケーションを取ることも出来なかった子が初音ミクをパソコンにインストールし、曲を作り始めた。そこから伝説が始まった。
 地元の友達が集まって、バカなことをやってスマホで動画を撮って編集してYouTubeに上げ始めた。そこから全てが始まった。
 そういうワクワクするようなでかい夢が、大人の手垢にまみれたスポーツの世界からはなくなってしまったのだ。



 「パリオリンピック、いよいよですね〜!」
 「パリオリンピック代表内定です!」

 そんなことを言われても「はあそうですか」という反応しかしなくなってしまった。昔は「いよいよオリンピックか〜!」とワクワクしたもんだったなあ、あれ何だったんだろ、というのが今の実感だ。
 なんか、全然盛り上がってないのに無理矢理盛り上げようとしてる。生活レベルでオリンピックの話題なんか出たこと、ないんですけど。

 正直、大谷翔平が結婚したというニュースもそんなにビッグニュースだという感覚がない。だって、野球と直接関係ないでしょ…?という感覚。当日会った人達とも、その話題に触れることは一切無かった。
 翌日、テレビをつけたらどこも軒並み大谷結婚の話題を取り扱っていたので「ああ大事なんか」と初めてぼんやり実感した。
 母親が色めき立って「お相手はどんな人なんだろうね!」と詮索していたが「どうでもいい…」「一般の人って本人が言ってんじゃん…」とうんざりした。昭和人間はいまだに金屏風の前で二人揃って記者会見を開いてほしいし、披露宴を生中継してほしいと思っている。

 私も含め、40〜50代から下の世代の多くの人は大谷の動向を彼の公式Instagramで追っているんじゃないかと思う。必要な情報や大事な報告は、彼自身が自分の言葉で知らせてくれる。
 だからなのかテレビの報じ方は高齢世代に向けて勝手な解釈や演出が大いに施された古臭い「今日の大谷ショー」になっている。テレビの中には随分昔の「プロ野球ニュース」や「ワイドショー」がゾンビみたいに今も生きている…ということになってしまっている。
 「テレビと高齢者」vs「ネットと若者」という構図が出来てしまって、スポーツはテレビと高齢者側に取り込まれてしまっている。

 ただ、体を動かしている人の人口というのは昔よりむしろ増えている実感がある。
 野球、サッカー、テニス、バレーボール。こういうある程度の才能と鍛錬と経験が無いと出来なくて、やるに当たっても人数を集めなければならず、怪我のリスクも大きい競技をやる人が減っているというだけの話だ。
 ウォーキング、ランニング、ロードバイク、スイミング、ダンス。あとジム通いや筋トレをしている人は多い。
 私は前述の通り体が丈夫ではないので激しい運動は無理だが、歩くこととストレッチ、筋トレをすることならできるので心掛けている。

 みんなが、自分に合ったペースで無理なく自分に合った体の動かし方をできるようになった。むしろ、健全な状態になったんじゃないかと思う。
 「体育」が「スポーツ」になり、「スポーツ」の時代も終わって「フィットネス」や「エクササイズ」の時代になったということなんじゃないか。



 「スポーツができる人間は偉いんだ」

 そういう前時代の考えをスポーツ界とメディアは改めないとますますスポーツに対する関心は失われるだろうし、アスリートを「選ばれし者」とする見方も改めないと大多数の「凡人」達の心はますますスポーツから離れていく。

 『キャプテン翼』が日本サッカーの発展に大きく寄与し、海外の一流選手達にも愛されたことは多くのサッカー関係者も認めるところで、『SLAM DUNK』は今日のBリーグの創設や日本バスケットボールの強化、人気に影響を及ぼしたともいわれている。

 マンガは、文化はスポーツより下に見られるようなものではなかった。
 美術部に入ると内申が下がるだの、軽蔑されるだの、行ける高校がなくなるだの。絵は、そんなものではなかった。
 文化は、バカにされるようなものではなかった。

 メディアは、特にテレビは文化に、カルチャーに対する扱いを改めてほしい。いまだにスポーツだけが特別扱いされている現状には、違和感を覚える。

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※2024/7/19 一部加筆修正しました

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鴎
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