恩送り
久しぶりに、母と噛み合わない会話をしたあと、ふと気づきました。
私は最近、自治会や地域の活動で母と同年代の方々と交流する機会がよくあります。
また、近所の一人暮らしの高齢の方が足を怪我したときには、心配して、私にできることをしたり、定期的にご機嫌伺いに行ったりしました。
私は高齢の方と話すのは好きだし、何かあればお手伝いをしてあげたいと言う気持ちが強いです。仕事としてではなく、自然な形でサポートが出来たらと、そういう活動にも精を出しています。
私の魂の奥底に、年配の方を敬って手を貸したい=本来なら親孝行をしたいという気持ちがあるのだろうと思います。
もしかしたら人間には、あえて「親孝行をしなさい」などと言われなくても、先人を敬い、不自由な人には手を貸してあげたいという本能が、本来備わっているのかもしれません。
親が毒親であった場合、その本能を発揮する機会が奪われるのです。
もちろん毒親でなくても、今は介護が大変な時代になってしまって、親孝行をしたい気持ちはあっても症状が重くて面倒を見切れないというジレンマを抱える人も多いかと思います。
どちらにしても、自分の中に備わっている高齢者に対する親切心を自分のできる範囲で発揮する機会を奪われてしまう人が増えているのかもしれません。
他人だからこそかもしれませんが、私の周りにいる高齢の方々は母よりもよっぽど話が通じるし、親切にしてあげたい、手伝ってあげたいと心から思えるのです。
ちょっと体が不自由そうだと「大丈夫かな?」と心配になり、自然に声を掛けることができます。
親に愛情を持つことができる環境だったらば、親に対してこんな気持ちになったのかもしれません。
「お母さん大丈夫?手伝おうか?」
という優しい言葉も自然に出てきそうです。
恩送り
という言葉があります。
誰かに親切にされて、その当人に恩返しができなかったとき、他の人に親切にすることで恩を返すという意味です。
実親からは親切にされなかったけど、私を助けてくれた人はたくさんいます。しかしその人たちの後を追いかけて恩を返すことは不可能です。
それに私を助けてくれた人は、そんなことを狙って助けたのではない。自然なつながりの中で、私が勝手に支えられていたと感じたことなので。
無理に当人に恩返しをしようとすれば、ある意味傲慢さや自己欺瞞も含まれてしまうかもしれません。
自分の中にある優しさを発揮するためには、恩返しよりも恩送りの方が無理がないのかもしれませんね。
そして何よりも、自分の心を穏やかにし、生き方を整えるためにも、恩送りをする意味があるのではないかと思いました。
介護が仕事になってしまうと、自分を攻撃してくる人や関わりたくないなと思う人でも、面倒を見なくてはいけません。
利用者からどんなに理不尽な目に遭わされても、その人を介護しなくてはいけない。
これは、自分を酷い目に遭わせた毒親でも、親というだけで面倒を見なくてはいけないというのと同じくらいの無理のあることなのです。
自然に持っている自分の中の親切心を、かえって発揮できなくします。
最終的にはお金のためと割り切って不本意な労働を強いられる。お金の奴隷のようになってしまいます。
介護職に就いていらっしゃる方には本当にお世話になったからこそ、その立派なお仕事を心から継続していただくために、介護という職業のあり方を根本から見直す必要があると私は思っています。
話がそれましたが、本題に戻すと…
人が人を助ける助けられるという関係性において、恩を送られる方も受け取る方もWin-Winでなければ無理が生じ、だんだんと心が荒んでいき、身体が疲弊していきます。
恩を感じるどころか、幼少期から自分を苦しめ、自分の人生を悪い方へ悪い方へと導いてきた毒親は最大の敵です。
自分の最大の敵になぜ恩を返さなくてはいけないのでしょうか?
同じように、世話をしてもらっていながら横柄な態度で職員を見下す利用者に、なぜ親切にする必要があるのでしょうか?
それは親切をする方がワガママに人を選んでいるわけではなく、人間が持っている本来の親切心に反する動きだから無理が祟るのです。
とはいえ、現代の超高齢社会では、自分が見てあげたいと思った人だけを介護するわけにはいきません。
せめて家族という縛りや仕事という枠ではなく、気の合う高齢の方と楽しく過ごして、心の張り合いにしてもらったり、ちょっとした手伝いをしたりして、心の中にある『恩』を送っていきたいなと思うのです。
毒親が増えている
公共の場で平然とハラスメントをおこなう高齢者が増えている
年下というだけで人を見下す高齢者が増えている……
ハッキリ言って、社会全体の高齢者の質が限りなく低下していると思います。
その上に、働き盛りの世代や、これからの社会を担っていく子どもたちは、人数の比で大勢の高齢者を支えなくてはいけない。
恩を送って欲しければ、自分がそれに見合う恩を誰かに送っていなければなりません。
明るく楽しく人と関わるだけでも、周囲の人を明るくして救われる人もいる。
恩とは、そんなちょっとしたところにも発生します。
しかし、人を見下し、人に猜疑心を向けるような人には誰も恩を感じません。
恩を送られなくて当然なのです。
それでもなお、高齢というだけで敬えとか世話をしろと開き直る人は、恩ではなく怨を送られて地獄に堕ちることでしょう。
私は心から恩を送りたいと思う人に恩を送りたいと思います。