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自分アドボカシー(代弁)

アドボカシー(代弁)について学んでいます。
弁護とは違い、アドボカシーは、その本人の気持ちや言葉をそのまま他の人に伝えていくことが重要です。
明らかな犯罪行為への欲求や、他者を誹謗中傷して追い込むようなもので無ければ、なるべく本人の意思をありのまま伝えていくことがベストです。
はじめは、弁護や支援、教育との違いがわからなかった私ですが、何回か講義を受けて、ようやくそのエッセンスがわかってきたように思います。
子どもには子どもの、大人には大人の、老人には老人の、もしかして犬には犬の、思いがある。それが周りから見て『くだらない』とか『物事が混乱するのでは?』と感じられたとしても、できる限りそのままの気持ちを伝えてあげなくてはいけません。
近所に犬の声に敏感な人が住んでいるからといって、犬は吠えたいという気持ちを抑えることはできません。
その関係性の調節は別の課題として、アドボケイト(代弁者)は、犬が吠えたいと思っていることを周りに伝えるべきなのです。

そう考えたら、私という人物は、これまで他者との関係性ばかりに気遣って、自分のやりたいこと、言いたいことを我慢してきたのではないかな?と思います。

今これをやったら、周りの人から笑われるのではないか?
今これをやったら、周りの人に迷惑と思われるのではないか?
今これを言ったら、せっかく進んでいた物事に水を差すのではないか?
今これを言ったら、誰かが悪く取って傷つくのではないか?

実際に、いくつもそういう場面を経験してしまったので、本当に笑われたり、混乱させたり、迷惑をかけたり、傷つけたりしたので、残念ながらその予測が正しいことも事実です。
だからこそ、私は余計なことをやったり、言ったりしてはいけないんだ。我慢しなくては!と思っていました。

しかしそれでは常に他人軸で生きていることになります。
その他人も、その時々によって違うので、一貫性はありません。
なのに、集団で「あなたはおかしい」と責められてしまうと、きっと万人が私の行動や言動を「おかしい」と思うに違いないと思い込んでしまうのです。

実際には、本当に狭い狭い集団の中で、暗黙のパワーバランスが生まれていて、私の行動を非難するつもりのなかった人も私を責めている可能性があり、もっと広い世界を見渡したら、私の行動に賛同する人の方が多かったということもあるかもしれません。

他人の評価や評判ほど、当てにならないものは無いのに、私は他人の評価に振り回されて自分の行動を決めてきたのです。
行き過ぎて鬱を患い、自分の存在そのものを消してしまいたいという衝動にまで駆られました。

何のために?
誰のために?
それで何が起きるのか?
それで何が守られるのか?

俯瞰して考えてみれば、私が意見を飲み込もうと、私の存在が消えようと、何も起こらないのです。
私は、私という存在がこの世にある限り、私の意思に従って世の中と関わっていくしかないのです。
私を非難した相手も、自分の意思に沿って生きているだけ。そうやってお互いの意思に沿って生きるからこそ、行き違いや衝突も起きる。争いたくなくても争う事態にもなる。
それが紛争に発展することもある。
しかし、それを止めようとするのもまた、自分の意思なのです。

これまで『私』の意思を代弁してもらうどころか、自分の中でさえも、『私』に「そんな意思を持ってはいけない。黙って周りの人に従え!」と命令されてきました。
命令している『私』は、毒親の禁止令によって洗脳されたゲシュタポです。
私が「あ」と声を上げようとすると、すぐさまゲシュタポがやってきて口を塞ぎます。
結果、一言も声を発することなく、息を潜めて生きてきたわけです。
そして自分と同じように余計なことを口走る人を軽蔑してきたのです。
「黙っていれば良いものを!」と。

キジも鳴かずば撃たれまい

キジが鳴かないで生きていくことはできません。
でも撃たれるという恐怖に怯えて、本来のキジの生を全うすることができない。
こんなおかしな生き方を、ずっとやってきたわけです。

自分で自分のアドボケイト(代弁者)になる。
「あなたはあなたの意思を主張して構わない」と言い続ける。
それで起きる諸々のことは、また別の方法で解決していくしかないのですから。


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