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離自感

また、自分の感情から乖離した。

最近、このような『離自感』こそが問題なのだと気づきました。
私の行動の原動力はきっと、『人がそれを見て、どう感じるのか』というところにあるのだと思います。

主体性をもって
自分の意思を大切に
自分が中心

などなど、生きるためには自分がどうしたいのかが大切であることなど、あちこちで聞かされて耳にタコができそうです。
頭でわかっていても、常に『人に』どう見られているのか、どんな印象を持たれているのかばかりを気にしてしまう私。
自分ではベストだろうと判断して始めたことも、他人が「え?それでいいの?」「なんでそんなことをするの?」などと言おうものなら、途端に不安になって続けられなくなってしまうのです。

そして、良くも悪くも、『誰も反応してくれなかった時』が最悪です。
今自分が何をやっているのか
自分は何をしたかったのか
今どこに立っているのか
そんなことが全てわからなくなってしまうのです。

『離自感』というのは、こういう時の放心状態を表した言葉です。
もちろん私のオリジナルです。

周りが忙しなく動き回っている時
みんなで楽しく盛り上がっている時
真剣な議論を交わしている時

自分だけが透明のバリアの中に隔離されてしまったかのように、人の輪や場の空気の中に入ることが出来なくなってしまいます。
周りから見ればきちんと参加しているように見えるのでしょうが、私の心はバリアの中に引きこもっていて、外の刺激に何の反応も出来なくなっているのです。

自分を大切に……

そう言われても、他人の意見や反応に振り回されている私には、何をどうして良いのかわかりません。
心から自分を大切にできるようになるには、敢えて周りから距離を置いたり、周りの人と反発したとしても、自分はこれで良いんだと割り切れる強さが必要なのかもしれません。

「私はね!」
と子どもの私が何かを主張しようとした時、
「今はあなたの話す時間じゃない!」と拒絶されたり、全く無視をされたりした経験は、本当に悲しい悲しい経験です。

怒ることも泣くことも許されず(怒っても泣いても拒絶されることが一番悲しいから我慢するしかない)、自分が場をわきまえなかったからいけないのだと自分を責め、他人のご機嫌を取るにはなにが良いのだろうかと必死に考える。
そんな癖を幼い頃に身につけてしまったのだから、変えることは容易ではありません。
表面的に行動は変えられるけれど、気持ちが付いていかないのです。
だから、行動ではみんなと楽しく笑っているのに、心はバリアの中で悲しんでいる。いや悲しむと余計に惨めになるので、何も感じないように気持ちを麻痺させるのだと思います。
その麻痺の状態こそ、離自感なのでしょう。

誰かに無視されたら悲しい
特に自分が最も信頼し依存している親に無視されるなど、身を切るような辛さだし、叫び散らかすくらいに腹立たしいことです。
子どもだからといって、何も考えず、何も感じずに居られるわけがありません。

私は怒って当然のことをされた
悲しく苦しい気持ちが抑えられないのは当たり前。

自分を信じるために、ずっと初歩的なことは、『人として当たり前の感情を持っていい、感じていい』と自分に言い聞かせることなのかもしれません。

だって、大好きなお母さんに、話したいことを遮られたり、無理されたりしたら、悲しいし腹立たしいのは当然!
私は何も悪くない。
むしろ人間の感情を敏感に感じ取れる自分は、なかなか鋭い感覚の持ち主だということ。

あとは、習い性のように生きていくと必ず突き当たる感情の波や揺れに、いかに振り回されないようにできるか。その訓練が必要なのでしょう!

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