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傷ついている

近くの飲食店の前を通りかかって、ふと胸がきゅっと痛みました。
フラッシュバック
以前、飲食店の外であった出来事が蘇ってきました。

ある趣味のサークルで食事をしたあと、店の横の駐輪場で、その趣味の仲間の一部が集まっていました。
新しく入ったばかりの人たちは先に帰ったのですが、私はその中では古くから居た方なので、その集まりに顔を出そうとしました。
ところがその中のリーダー的な人から「あなたは大丈夫」と、帰るように促されたのです。
私が自転車を出そうとしていると、「おめでとう」と言って何かを渡しているようでした。
それで察しがつきました。
仲間の一人が結婚し、そのお祝いを有志で用意したので、それを渡すための集まりだったんです。
私はその時、彼女の結婚についてはっきり聞いておらず、有志でお祝いを用意したことも知りませんでした。
乗り遅れた私にわざわざ連絡をくれる人もおらず、自然とその仲間からは外れていたのです。
その時は原因がわかって納得しました。
乗り遅れた私がいけないのだし、お祝い代を出していない私がそこにいるのはおかしいし、連絡をもらったら強制的に出さざるを得ないからあえて知らない人は知らないままにしておいたのかもしれないし……。
タイミング的にどうしようもないことが分かったので、自分の悔しい気持ち、悲しい気持ち、腹立たしい気持ちを封印しました。

ところが最近、何気なくお店の横を通りかかっただけで胸が苦しくなってしまうほど、当時の私の傷つきは深く、解消できていなかったようです。

大人なのだから、こんな幼稚なことに傷ついているのはおかしい。
誰だっていろんな経験をしている。もっと辛い経験をしている人もいる。だからこんなくだらないことに悩む私はおかしい。

幼少期のことにしても、学生時代のことにしても、大人になってからのことにしても、傷ついている私が恥ずかしいと思って封印してしまったことが、あまりにも多いのかもしれません。

他人がどうするかは知らないけれど、私は、私のことを蔑ろにされて、深く傷ついたし、悲しかったし、悔しかったし、腹立たしかった!
それを相手にぶつけるのは叶わないからこそ、自分の傷つきは当然なんだよね、と認めてあげなくてはいけなかったんです。

傷ついたことに対してどうしても、言い返したり、抗議したり、報復したりしないと解消するはずがないと思っている自分がいる。
それらの攻撃がいけないことをわかっているから、怒りを抑え込もうとしてしまう。
報復と封印の間に、『自分自身の愚痴を傾聴する』という方法があることをわかっていませんでした。

私だって、よく知っている間柄の人だったから、お祝いの輪に加わりたかったのに!
有志を募った人は、なぜ後から「声を掛けられなくてごめんなさい」と事情を説明してくれなかったの?
仲間だと思っていたのに、さりげなく排除されていたのか、悲しい。
ひどい!
こんなのイジメだ!
陰湿だ!

自分がハズレものになっていることにぼんやりと不快感を感じていたので、その趣味の集まりは辞めたのですが、それでも解消できていない怒りがあったことが、今回のフラッシュバックでよくわかりました。

その仲間とは距離を置いたことで解決したのではなく、人間としての屈辱を受けた経験は残り続けていたのです。

毒親と同じく、やった本人に自覚はありません。その時の記憶も無いと思います。

大切なのは、相手に抗議することではなく、『私』が『傷ついた当時の私』をしっかりと認めて抱きしめてあげることだったのです。

そんなことをされたら、悔しいのは当然だよ。
こちらは仲間だと思っていたのに、私のことが気に入らないという感情を、そういう形で出すなんて、卑怯だよね。
相手のやり方がおかしいんだよ。気遣いが足りなさ過ぎる!
気遣いもしたくないくらい毛嫌いしていたのか。幼稚だね!

出るわ、出るわ!
愚痴がいっぱい溜まっていました!

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