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凍てつく心

私が信用すると、依存気味になってしまうのか?

信用していた人から、私の態度について逆上され、落ち込んでいます。
私があけすけに言った言葉が、相手にとっては馬鹿にされていると感じられたらしく、その前に私がお願いしていたことに関しても、気遣いや礼儀もなく、不服だったと言われてしまいました。

そんなことを言われるまで、自分の横柄な態度に気づきもしなかった私。
こんなことは一度や二度ではなく、子ども相手にしても、余計な発言を悪いタイミングでしてしまい、不信感を買ってしまうことがあります。
距離感の持ち方がバグっているようです。
だから、下手に近づかないか、近づいても常に緊張感を持って頭を働かせておく必要があります。
けれど日常はジェットコースターのように待ったなし!
ついつい気が緩むと、
信用している人=好きなことを言って良い人
となってしまうようです。

もともと、人を信じたい、人と交わりたいという気持ちは強いのでしょう。
けれどその幼少期の無邪気な態度が受け入れられなかったがために解消することができず、大人になったら何を言っても受け入れてくれる人を探しているのかもしれません。

大人同士の信頼関係が理解できていないのです。
自分を開示するにも相手に受け入れられることと受け入れられないことがあることに思いを馳せることができない。
だから結局信用して良いと思った人に依存してしまって、関係が壊れてしまうのです。
私にとって、暖かい関係とは何でも言える関係=依存になり、節度のある関係というのは無理解、無関心というように、どちらかに偏ってしまいやすいのでしょう。
けれど、それで相手が理解せずに指摘してくると、途端にこの人はやっぱり無理だ!となってしまいます。

人と関わるのが苦痛です。
それは私にとって、触れれば凍りつくことを承知の上で、触れなくてはいけないものだからです。
他人の腕の内で暖を取ろうとすれば必ずトラブルになる。
だから最初から暖を取ることはできないと承知の上で、関わる覚悟が必要なのでしょう。

暖かい心で、適度な距離感で、人と関われる人が羨ましいです。
そんな関係を実現させるためには、基盤となるものがなく、見本となるものもない。
明るく楽しく人と交わっている人が、どれほど神経を張り巡らしているのかということが、凍てついた心の私には想像できないのです。

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