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不快感を分析する

ショッキングなことがありました。
普通の人なら、よく遭遇するトラブルかもしれません。
私だけに責任があるわけでもなく、私だけで対処しなくてはいけない問題でもありません。
一緒に対応してくれる仲間もいるし、話し合う機会も十分あります。
それなのにとても落ち込んで、『やっぱり私はダメだ!私だけがダメなのだ!』という気持ちがムクムクと湧き上がってきてしまい、どうしようもなくなってしまいます。

みんなで解決する問題であるはずなのに、私が絡んだことでみんなに迷惑を掛けてしまったとか、あの人ならきちんと対処できるはずなのに、私だからダメなのだとか、そういった『ひねくれモード』が発動してしまうのです。

一緒に対応を考えてくれる『仲間』の顔さえも、「あーあ、ほんとakbalはめんどくせーやつ」
「あんなのでよく、『できる』なんて言えるよな」
と、非難しているように見えてしまうのです。

以前辞めた仕事も、趣味の集団も、このひねくれモードか発動したことで、誰も要求していない過度な反省を自分の中で繰り返し、それは反省といっても、ただ自分をいじめて凹ませて、再起不能にするような負の感情にしかならず、結局「私はここには居られない!」と逃げ出したようなものでした。

人生の中で、思った通りにいかないことや、良かれと思ったことが裏目に出ること、思わぬ誤解を招いて人を怒らせてしまうことなど、たくさんたくさんあります。
しかし私は、そういうことが起きるたびに、それをネタにして自分をいじめ、気力を根こそぎ奪ってしまうのです。

長く生きれば生きるほど、自虐の機会が増えていき、正しい反省が出来ていないためにまた同じことを繰り返し、治りかけたかさぶたを剥がして、また傷を深めていく。
たからこそ、『年の功』なんてものが積み上がる暇は無いのです。

今回の事が起きた直後は、またまたこの自虐モードになっていました。
もうその場には行きたくないという気持ちが強くなり、ドロップアウトしてしまおうかと思ったくらいです。

誰も、私の中でそんな葛藤が起きていることを知りません。
私がドロップアウトしても誰も困らないし、私が逃げ出すことと、その出来事の因果関係などわからない。
大嵐に揉まれているのは私だけ……。
なんとも滑稽な話です。

世の中は、私に親切でも私に排他的でも、なんでも無い。世の中はただ淡々と時が過ぎていくだけです。
誰か個人が何かをしたから、ものすごい悪事が起きたということは滅多に無く、例えそんな一大事が起きたとしても、たった1人が原因ではなく、そこに至るさまざまな要因が重なり合って起きるもの。
むしろ個人の影響で多くの人が被害を受けるなんてことがあったとしたら、その人物は良くも悪くも、特別な存在であるということです。

私が反省すべきなのは、沸き起こっている不快感の原因はいったい何なのか分析すること。
これは単なる個人の中の個人の問題であって、他の人は決して知りようのないことなのですから。

そしてこれが冷静に分析できるようになれば、これまでのように、1人虚しく身を引いて事が解決したかのように錯覚するという無意味な行動もしなくて済むようになるかもしれません。

そしてこの行動の根本原因に、毒親の影響があることは、テレフォン人生相談てお馴染みの、心理学者の加藤諦三先生が、30年も前に本に著していらっしゃたんです。↓

『愛されなかった時どう生きるのか』
加藤諦三

加藤先生も毒親持ちだったとか……

今回の出来事は、私が次のステップに進むための、かなり良質な研究材料だと思います。

さて、自分の中をしっかり覗いてみましょうか!

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