いろんな人生
ガンに全身を侵され余命いくばくも無い女性が、安楽死を希望し、スイスでそれを実現するというドキュメンタリーを観ました。
ガンが脳全体におよび、頭にはいくつもコブが出来て、視神経も侵して片側が見えなくなっている。呼吸器にも影響して咳が止まらない。
本当に痛々しい様子で、それでも最期まで明るく、残された家族を気遣い、安らかに逝く。
自分の人生に悔いはない。そして家族の負担を最小限にと選んだ安楽死。
素晴らしい生き方だと思いました。
日本では許されない安楽死。
それを選択するには、かなりの知識や知恵、そして人生への自信と責任感が必要です。
このドキュメンタリーの主人公は、仕事でも家庭でも前向きで、勉強熱心で、大変頭の良い人だったようです。
だからこそ、自分の身体がどうにもならなくなる前に、自ら支援団体を見つけ、スイスの受け入れ先に英語で決意表明文を送って、安楽死を許可されています。
一般には、なかなかできないことでしょう。
ドキュメンタリーの中で、彼女の人生が語られるのですか、実家は幸せな家庭とは言いづらく、実家から逃げるように自力でスキルを身につけ、就職し、職場でも素晴らしい業績を残していたようです。
また、自身の生い立ちが複雑だったからこそ、幸せな家庭を築きたいと願い、その通り優しいご主人と、聡明で母のことを誰よりも尊敬する2人の娘に恵まれる。
まだ母が必要な年にも関わらず、娘たちは母の決意を尊重し、冷静に見送るのです。
生い立ちが複雑であっても、努力で幸せを築き、病でどうしようもなくなった時、自らの人生の終わりを自力で計画する。
短くても、なんと素晴らしい人生なんだと感動しました。
こうした努力の原動力は、絶対的な『自己肯定』と『自信』なのだと思います。
複雑な生い立ちであっても、こんなふうに自分の生き方を自分で決め、幸せになりたいという意志を貫いて実現させることができる。
全てに自信を無くして、自ら人生を破壊させるような方向に持っていてしまう私とは対照的。
死すらもコントロールできる強い意志を持っていた主人公に圧倒されます。
表面的に家庭が円満だから愛着障害が深刻にならないかといえば、そうではないのだと思います。
家庭環境が悪かったり、片方の親が子育てに不向きであったとしても、誰か1人でも、その子を信じ、愛情を注いでいたら、全く違うのかもしれません。
まだ生まれたての赤ん坊が必死になって世の中を知りたい、人と関わりたいと求めるのに対して、誰かがその求めに応じてくれた経験があるのかないのか、その違いこそが大きいのではないでしょうか?
赤ん坊の表情やしぐさを観察することなしに、一方的に関わったり、あるいは一切関わらなかったり……。
赤ん坊が何を求めているのか想像することなしに「私はよく面倒を見た」と思い込んでいる親も多いでしょう。
面倒を見たのか、放置したのかの違いではなく、常に子どもの方を向いていたのか、それとも子どもの姿など見ずに手順だけをこなしていたのか。
同じように親が面倒を見ているにも関わらず、子どもにとってその『愛情の掛け方』の違いは歴然なのです。
番組では、主人公の詳しい生い立ちまでは語られませんでした。
だからこれはあくまで私の想像なのですが、不幸な生い立ちであっても、だれか1人、彼女を信じ、彼女にたっぷりの愛情を注いだ人物がいたのではないかと思います。
その愛情こそが、彼女が自分を大切にし、家族を大切にし、自分の身体がコントロールが効かなくなる前に人生を全うするという、究極の生き方を選ばせたのではないかと思うのです。
安楽死を合法化するかしないかの議論はしたくありません。
むしろ、そこまで自分と家族のために努力できる人だけが選べる(手続き面でも、経済面でも)現状が、ベストではないかとも思います。
現状で安楽死を選べる人というのは、非常に冷静で自分自身を大切に思うことができる人に限られるのだと思います。
人は人に迷惑を掛けずに生きていくことはできません。
特に難しい病気に冒された時、思考も生きる気力も失われ、結局全面的に誰かの世話にならないと生きていけない。
けれど自殺などの死を選択すれば、死してなお周りに大変な苦痛を与えてしまうのです。
自分を否定し続けていると、自分を生かすために世話をしてくれる人さえも恨んでしまうかもしれません。
生まれた時も死ぬ時も、誰かに影響を与えることを避けられない。
迷惑を掛かながらも、「自分は1人だ。誰とも関わりたくない。誰も信用できない」と思い込んでしまうことほど、悲惨なものはありません。
周りの人も、感謝はされず、猜疑心を向けられながらも、関わらないわけにはいかない。
そうした行き違いが、やがて大きな恨みになっていってしまいます。
本人に負担を掛けようと思っているわけではないのに、本人の猜疑心の強さから恨まれてしまうということになるかもしれません。
幼少期に、まだ無垢な赤ん坊の求めに、愛情深く接してくれた大人がいたかどうか?
その人の人生が幸福になるのか、悲劇に終わるのか、それはまだ本人が何もわからないうちに、周りの大人によってある程度決定づけられてしまうのかもしれません。
幸せな人の生き方から、頭の上だけでも、幸せな育ち方を想像し、人を信じて良いんだよと大人の自分が時空を超えて労わる。
そして幸せな人生の終え方を想定する。
失った過去を取り戻すには、それしか無いのかもしれません。
しかし、そんな不幸な境遇に生まれ落ち、どうやっても心から充実した生き方を選べない自分の悲しさは、一生消えることは無いでしょう。