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匿名という方法

経済の言葉で、「大量生産、大量消費」という言葉があるが、
この言葉には一つ足りないものがあると思っていた。

それは、大量生産と大量消費の間に「大量動員」があるということだ。

つまり、広告によって、サービスや商品の存在を周知してもらい、
店やサービスを利用してもらうために
人を集めるということだ。これはネット空間でも事情は変わらない。
サービスを提供しているサイトに
アクセスを集中してもらわないといけない。

マーケティングやコピーライティングが発達した、又は、
発達させる必要があったのもそのためだろう。

この「大量動員」が気になったのも、
平川克美さんの「消費をやめる」という本を読んだからだ。
その本にはこういった記述がある。

生産者は、顔があるひとりひとりの労働者が協働して成り立つ営為です。
単独で行われた生産物にはときに銘が刻まれます。
ところが、消費者には顔がないのです。
おカネというのは実体をもたない単なる記号です。
つまり、おカネが中心になったことで、
「消費者」は身体と名前を失い、アノニマスな存在になっていきました。
(平川克美著 消費をやめる P51)

例えば、人気のアーティストのライブで、
「動員5万人」みたいなことがありますが、「動員5万人」みたいな世界では、
商店街の商売のように、常連のお客さんの家族構成やら、
好みやらをある程度把握していて、世間話をするというような
やり取りを5万人分することは当然できない。

ワン・オブ・ゼムとして、
それぞれの個性や特性は便宜的に捨象し、
設定した範囲のサービスを利用するユーザーとして均質化して
対処せざるをえない。

そこに介在する貨幣は、使用価値を持たせず、交換価値だけ持たせて
個々人の特性を捨象して交換を効率化させる。

つまり匿名というのは個人の情報を秘匿するということと
等価交換空間を作るため、「顔の見える関係=有縁的」の外部にある
「大量生産、大量動員、大量消費」のシステムを稼働させるもの
と言えるのではないかと思う。

資本主義、並びに、都市社会で生活している以上、
「大量生産、大量動員、大量消費」のシステムを利用するしかないのだが、
それだけ生活しようとすると、
自分の生活には、ほとんど「匿名」の時間しかないことになってしまう。

自分の生活の数パーセントでもいいので、
「顔の見える関係」の回路を作る、交換速度をときどき落とす、などして、
記名性を作っておかないといけないのかもしれない。

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