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最先端は古くなりにけり

SNSの発達で、一つの事象に対して、
様々なデータや、専門家の意見を見ることは可能になったが、
専門家で意見が分かれてしまうような複雑な事象の場合、
門外漢には、その事象を適切に判断するのは難しい。

「正確なデータの積み重ね」は必要だろうが、
それはデータの解析能力があった場合に有効なところがあり、
専門外のデータの解析能力に不十分さがあるから、
専門家を頼るのであり、
専門家で意見が分かれてしまうと、
門外漢にとって、そこは袋小路である。

解剖学者の養老孟司さんが、本でこのようなことを書いていた。

積み重ねでいうなら、解剖学くらい、
積み重ねのある学問は少ないであろう。
ルネッサンス以来、訂正の余地のない事実の記載を
積み重ねてきた

これだけ「進歩」の跡を残した学問の歴史を見れば、
進歩には驚かない。
解剖学も昔は最先端だった。
いまの最先端もいずれ解剖学になる。
なれればいいが、おそらくほとんどの学問は、
古くなっても解剖学にすら、なれないのではないか。
なぜなら、解剖学は「人体」を扱う。
人体という「事実」は、ここ数万年変化していない。
人体についての事実の記載は、数百年では、
まだ変わりようがない。
他の分野で、そこまで変わりようがない
と自信をもてるものが、どれだけあるか。
(養老先生と遊ぶ P234、235)

新しいデータや、新しい発見は、「新しい」がゆえに、
また別の角度、別の視点のデータがでてくれば、変動してしまう。

ある事象がおおよそ判明するには、ある一定の期間、その事象を観察し、
その事象を解釈する視点のパターンが尽きてきて、
変動の度合いが小さくなってゆくというプロセスを経るしかないのだろう。

「この事象はおおよそ判明した」という判断が安定するには、時間がかかる。

まだ時間の新しい事象に関しては、
専門家の意見が分かれたり、結果の異なる様々データが出ていたり、
門外漢には判断がつかない。
もしかするとプロ同士でさえ、判断が安定しないのかもしれない。

ということは、データの解析の能力を鍛えるよりも、
「この事象はおおよそ判明した」という判断が
安定するまでの期間をどう過ごすか、
ということのノウハウを編み出した方が、
門外漢には効果があるのかもしれない。

門外漢からすれば、
過渡期の最先端とは、まったくもって面倒である。

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