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レーヴェの時代の証人としてのギーゼブレヒト

 ルートヴィヒ・ギーゼブレヒト(1792‐1873)という人物の伝記を読んでいる。ドイツ語の題名を大まかに訳せば『ルートヴィヒ・ギーゼブレヒト 詩人・学者・教育者』とでもなろうか。著者はフランツ・ケルンで、調べてみればギーゼブレヒトより38歳も若い、シュテッティン(現ポーランド領シュチェチン)生まれの人らしい。長年シュテッティンでギムナジウム教師を務めたギーゼブレヒトの、おそらく教え子ではなかったかと思われる。伝記の出版は1875年にシュテッティンでなされている。もちろん現物は手許にない。デジタル化されたものを読んでいる。

 この国のドイツ文学の専門家のうちで、ギーゼブレヒトを研究した人がいたかどうか、寡聞にして知らない。そんなトリヴィアルな人物に、なぜ私は注目しているのだろうか。答えは単純で、作曲家カール・レーヴェ(1796‐1869)についての知識を深めたいからである。レーヴェとギーゼブレヒトは40年以上にわたって、同じギムナジウムの同僚教師だったのである。私はレーヴェのバラードがとにかく好きで、いちいち歌詞や解説を訳しながらcpoの集成録音を聴き込んだり、レーヴェについての研究書を読んでみたりしている。しかしレーヴェだけを見つめていたのでは、かえってその時代背景を見失うおそれがあると考えた。レーヴェの身近で生きた別の誰かの人生を通じて、レーヴェその人がよりよく見えるということもあるのではないか。そんなことを考えながらレーヴェの自伝を読んでいたとき、編者のカール・ヘルマン・ビッターが註に記したギーゼブレヒトのことが目に留まった。ナポレオンに対する解放戦争では、軽騎兵として戦ったという一文が印象に残った。この人だと思った。

 労働や他の読書の合間を縫って読んでいるので、ギーゼブレヒト伝はなかなか進まないが、それでも今までに読んだところからだけでも、興味深いことが多く出てきた。ギーゼブレヒトが生まれたメクレンブルク=シュトレーリッツ公国のミーロウは、ヨハネ騎士団ゆかりの町だという。ギーゼブレヒトが詩を書いたレーヴェの独唱歌曲に〈聖マリアの騎士〉というのがある。「アヴェ・マリア」しか唱えられなかった無知な騎士を歌った、勇ましくも美しい作品である。またギーゼブレヒトが台本を書いたレーヴェのオラトリオに《アヴィスの騎士団長》というのがある。カルデロンの戯曲『不屈の王子』に基づくというこの作品の全容はまだ知らないが、かつて演奏会用に〈騎士団長の不死鳥の歌〉という曲のみ、対訳を作成したことがある。こうした作品は、ギーゼブレヒトの生い立ちと無関係ではあるまい。またミーロウはメクレンブルク湖沼地帯に位置しているため、ギーゼブレヒト少年は友人たちと湖や池でよく遊んだが、そのあたりには「水の母」なる妖魔が棲んでいると信じられていたので、さしもの悪童たちも黄昏時にはこれを恐れたという。このような挿話も、幽霊や妖魔が跳梁するレーヴェのバラードの世界と隣り合っている。それにギーゼブレヒトは教職や詩作の傍ら、ポンメルンやバルト地方の歴史研究にも打ち込んでおり、『ヴェンド人の歴史』というのが主著であるという。こうした地域研究もまた、ローカルな伝説に多く依拠したレーヴェのバラードと、関心を同じくしていると思われる。

 ドイツがナポレオンの支配をはねのけてから統一国家を形成するまでの時代に、ドイツ人と呼ばれた人々のパトリオティズムとナショナリズムがどう関わり合ったのか、無教養な私にはまだうまくつかめていない。しかし若くして解放戦争に加わり、壮年期にはフランクフルト国民議会の代議士となり、老いては孫が普仏戦争に出征したというルートヴィヒ・ギーゼブレヒトは、疑いなくその時代の証人である。遅々として進まない読書ではあるが、これからもギーゼブレヒト伝を読み進めたい。レーヴェとギーゼブレヒトの関係から、あらんかぎりのロマネスクを取り出してみたい。私はもうこの先、何ができるとも思えない。だがもし天命が許すなら、そのときはレーヴェやギーゼブレヒトのことを作品に書いてみたい。