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【情報センター前編】タフな会社で、タフになりました!                      

「編集」と「営業」

 大学は7年、長く留年しました。いざ卒業のめどがついた時、就職がありません、家族持ちの新卒はどこも敬遠です。家族を養いながら「学生」アルバイトで日銭を稼いでいたので、学生でなくなるとそのアルバイトも解雇になります。だから日々の生活費をすぐに入れることが就職の目的でした。何になりたいとか、どういう業界を目指しているとか、そんなことを考えることはなかった。
たまたまアルバイト先で、しんどいけど仕事があると教えてもらいました。それが「情報センター」。大阪が本社で、アルバイト情報誌「日刊アルバイト情報」と正社員の求人誌「週刊正社員」を発行していた。就職に困っている自分にあっているなと思いました。他にも東京で「情報センター出版局」の版元でした。仕事は、稼ぐなら「営業」。「編集」は稼げそうではなかった。もちろん稼ごうと思いました。でも、あわよくば、「編集」も、との色気もありました。

 

起点

プロの「編集者」には魅力がありました。しかし、その当時の日本的限界も感じていました。それはなぜ?「書評」や学生新聞をしていたが、まだ崩せない壁があったから。1980.5.18韓国で光州民主化運動がおきた。今起きている現実を学生に伝えたかったが、全く情報が入らなかった。支局や人の交流もあるはずなのに大マスコミもだめ。真偽はわからなかったがT・K生ぐらいか。通り一遍の書きもので、さらに踏み込むことができない。この日本、普段はどうでもいい情報がいっぱいあるが、いざ根本的な政変・闘争・革命・戦争が起こると、情報がかなり限定されてしまう。言論の内容もコントロールされる。反論するにも、正確な情報がない。同じ情報をネタに、真偽のわからない手前勝手な賛成反対論評があふれる。残念。忸怩たる思いがあり、それならば、日本枠ではなく、あらゆる文化や民族・宗教との差異と理解と情報網をもち、自分の考えをもって、抵抗を続けたいと思った。この頃、アジアの活動を伝えた「水牛通信」はよく読んだ、なかなか手に入りにくかったが。アジア現地の生活実情、風習、生き方、思想、音楽、文化への共感。また、各地の民俗や歴史への好奇心。それが本を読み続け、「編集」というものに興味をもち始めた初めです。

※今は「水牛通信」は検索すれば読める、便利になったね。光州のこと「号外」は、ぜひPDFファイルでみてほしい。他の号の木版もね。

検索先 https://suigyu.com/suigyu-tsushin/

「情報センター出版局」は新しい表現の希望だった


としても、情報センターには中途採用の「営業」で入りました。しかし、営業成績がとてもよければ「編集」もさせてくれと、社長面接で直談判した上で。入社後、周りの方々に社長にそんなことを言うのは誰もいないと言われた。85年当時、このあと日本はバブル期に入ろうとしていた。あとにして思えば、総資本VS総労働の時代ではなく、対立軸のないポストモダンの時代に突入していたのだろう。
東京の「情報センター出版局」は星山さんが局長で、星山組が時代におもねない個性豊かな本を次々と出版していた。この時代のフロントですね。椎名誠さんの「さらば国分寺書店のオババ」、藤原新也さん「東京漂流」「メメント・モリ」、中村征夫さん「海も天才である」、村松友視さん「私、プロレスの味方です」などなど名作ばかり。ずっと後では岡庭昇さんも書いていた。
冨田社長は元早稲田漕艇部の運動マンだったかな、経営手腕ではかなりきつい人でした。その発行人のもと、他の出版社ではだせない企画ものがありました。この頃、社長は新幹線の往復で読み切れる本を模索していたようです。それが「CenturyPress」シリーズかな、推測ですが。判型も鞄に収めやすくしていました。

昭和軽薄体

ちょっと話はとんで、椎名さんのこのご本「さらば・・・」は私が出版局に興味をもった1冊です。面白い。文体は椎名さん曰く「昭和軽薄体」。文語体ではこの表現は無理。今、読んでも新鮮です。うんうん、うなずきながら引っ張りこまれます、スラング英文に似てますね。当時、おまわりさん、国鉄職員、コームイン、書店の「制服」着用者はどこかエラそうでした。古本屋さんも私服なのにどこか敷居が高かった。そこに小さな怒りがあるわけですが、このちょっとした問題を熱くコミカルに鋭く切り込んでいて、しかも最後はほろっときます。どこからでも読めて笑える。
これがいい。文学作品や推理ものは最初から順番に読んでいかないといけないけれど、そういう形式にこだわる必要がありません。新幹線に最適です、今みたいにスマホやPCはありませんし。
いしいひさいちさんのカットもまた文に負けず、独特の味があっていい。さすが名人です。アルバイト中よく読んだ「がんばれ‼タブチくん‼」は共感しながら熟読しましたね、古い話ですが。どこから読んでも共感して笑える。
 

営業は厳しい!

廃部寸前の中途採用の求人誌事業部に配属されたが、営業はかなり厳しかった。まず「固定給+報償制」の給与体系で月間ノルマもあり、スペースを売らないことには生活できる手取りにならない。固定給は最低に抑えていました。しかも、固定客はなく、毎月新規開拓ばかり。チームで売り上げがあがらなければ17:00に事務所に戻ってきてから、飛び込み営業を100件という過酷な施策で再度営業にでかけることもありました。でも、それで売れるわけはありません。この時間であいているのは通常の会社はなく、夜のご商売のとこなど。この時、持ちエリアに大阪北区があり、キタ新地や太融寺あたりに結構飛び込みしていた。おかげで、夜のご商売の求人実態などには強くなりました。もうひとつ言えば、飛び込みに行く時、淀屋橋でコームインにすれ違いますが17:00定時で帰ることができ、しっかりとした月給がもらえる職業は憧れでしたね。。。
また、冨田社長は、TQCにも熱心でした。ここで、嫌いなプラグマティックの品質管理をしっかり勉強させて頂きました。この活動だけは残業代がでたので。

損益分岐点を超えた!


しかし、「週刊正社員」事業部の皆の血汗と努力の成果で、営業成績は伸び、万年赤字体質から損益分岐点を超え廃部を免れ、さらに増収増益を継続し、しっかりとした黒字体質へと転換しました。
社長からは、報償に事業部の営業全員海外旅行をプレゼントされた。おそらく情報センターにとって初めてだろう(あとにもない)。楽しく行ってきました。
この波にのって、求人誌「週刊正社員」から天職情報誌「S'agas」創刊へとすすむ。この時機、業界的には、リクルートが「就職情報」→「Bing」、学生援護会が「求人タイムス」→「DODA」へと変わり女性誌「サリダ」を創刊した。
誌名「S'agas」とは、①天職をさがす(探す)②SAGA=北欧で「物語」を指す、自分の人生の物語を紡いでもらう、二つの意味合いがあった。

天職情報誌「S'agas」創刊


かねて入社時の約束通り、営業から編集へと異動が決まった。
「編集」といっても、編集長1名と私で、アシスタントの高卒女子1名からの出発です。のちに専属カメラマン1名とライター1名が加わりました。
私が編集に行った目的は、売れる雑誌を作ってほしいという位置づけでした。編集長は営業経験がないので、どちらかというとハイセンスな編集雑誌を好む方、しかし天職雑誌は求人広告料でまかなっています。「売れる」とは、雑誌の販売部数ではなく、広告掲載料のアップです。そのための企画を作っていきました。各業界を業界ごとに俯瞰した「仕事鳥瞰図」。求人広告とタイアップしたパブリシティ記事、これは営業時代から散発的にありましたが、巻頭記事だけではなく中小企業の個々まで広告とセットで取材して販売しました。普通、求人広告で「老舗」「社風がいい」「アットホームな会社」「たくさん稼げる」とキャッチフレーズがありますが、それだけでは会社の個性がわかりません。「老舗」といってもいつから創業していて、お店のポリシーは何か、何を大事にしているのか、新しい人への教育研修などはどうなっているのか、具体的にいくらもらえるのか、もう一歩深掘りしたものが好評でした。また、この頃、できつつあった「派遣業界」を取材して巻頭に掲載しました。「正社員」ではないのですが、これからの働き方で、記事にしました、今はもうない会社もたくさんありますが。

取材させて頂いた多彩な方々

  京阪電鉄90周年モニュメント(於 天満橋) -ここから、ここへ- 今井祝雄さん作 2001年37kgレール+3000系車両軸箱+ウイングばね

短い期間の編集でしたが、たくさん取材させて頂き、貴重な経験をさせて頂きました。当時、大阪花博がありましたので、有名人にも「PRESS」で取材させてもらいましたね。

今井祝雄さん  毎月掲載して頂きました、ご制作されたパブリックアートなど一緒に取材にも行き、大変お世話になりました。お出しになられる企画を読みながら、月何本か回す時、このひとつのネタでこういう切り方をすれば複数の企画になるのだなというコツをひそかに勉強させて頂きました。奥様が私と同郷のご出身ということも、とても親近感がありました。

安藤忠雄さん 今井さんのご紹介で取材させて頂きました。ちょうど、中之島の新しいデザインを手がけていて、EGG型の構想を提示されていました。取材にいくと、いきなり怒られたのが印象的です。「遅いと」。確かに、掲載は展示イベントの開始前ではなく、開催期間中の半ばになるため、広告効果としては半減するのですが。それでも、初対面でそんなにいきなり怒らないでもいいのではないの。一喝のあとは、準備中の展示物をみながら熱心に意図を解説して頂きました、とてもきさくな「どてらい男(ヤツ)」でした。私の取材の次は、竹中組の総帥:竹中統一さんでした。帰り際にちょっとかいまみて、まあ、とても丁寧にご対応されていました、とてもお二人の信頼の絆が深そうだなと感じました。

花博では レセプションがありました。
三宅一生さん レセプション会場からちょっと休憩で会場外にいると、たまたま外に出てこられました。2人だけということもあり、天職情報誌を作っていますと自己紹介してお声がけしたところ、気さくに短時間ですけど雑談してくださいました。さすがにとてもダンディでおおらかな良い方でした。

ソニア リキエルさん 会場で急なご依頼をさせて頂き、ちょっと驚かれていましたが(そりゃ、そうだ)、通訳の方が説明してくださり、快くコメントを頂きました。とても快活な方でした。インドの綿に興味をおもちのようでした。

今ではありえないでしょうね、この当時、ややゆるやかでした。貴重な体験です。

後編へ


というわけで、大阪から離れられず東京へは行けませんでしたが、この当時の「情報センター」でないとできない体験をさせて頂きました。

この情報センターが総力をかけて出版局が出した、気になる1冊があるので後編に続きます。


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